戦後日本のGHQの検証 川村一彦
平成23年4月7日記
太平洋戦争での終結に占領統治したのが連合国最高司令官司令部(GHQ)でその最高責任者がマカッサー連合国最高司令官であった。この占領軍最高司令官マカッサーとGHQが行なった5年間ほどの政策、行政、機関、制度、構築が戦後日本の方向性と指針は示され、その後日本に大きく影響した。日本の伝統文化をなし崩しに変革させ、特に「日本国憲法」に関してはその後の世界的変動の中に、また世界的状況に組み込まれ、解決に道すら見出すことの出来ない,課題を押し付け、残し去った。何故なら軍国を招いた旧日本の政治体制とそれらに組した財閥を解体し、軍閥、官僚を追放をし、残された何の権限も経験も持たない者達に未来を決定する重要案件にGHQは一切許可を拒んで戦後日本の構築を西欧化民主主義を描きつつGHQの布石を打っていった。アメリカにとって西洋型民主主義の布教以上に自国に都合の良い国家を目指したに違いがないが、結果その目論みは外れ、アメリカ文化の普及に成功したものの、その後の日本の戦後統治機構に制度など「憲法問題」に政界になど禍根を残す曖昧な痕跡を残す結果となってしまった。その点経済面では朝鮮戦争の需要を機に奇跡の復興、発展と国際的に評価された。総じてGHQの統治機構に計画通りの国家構築には成功を治める事は出来ず、東西冷戦構造に重要な存在国としての日本を考えた外交を展開するにあたり、日本の国民性と独立後の躍進と気概に「国際社会の重要なパートナー」である事に気付かされた。
昭和20年8月15日 天皇、戦争終結の詔書の放送(玉音放送)日本無条件降伏、第二次世界大戦終結。
昭和20年8月18日 皇族の東久邇宮稔彦内閣成立。〔戦争処理内閣〕
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第43代東久邇宮内閣、外務大臣、重光葵、吉田茂、内務大臣、山崎巌、大蔵大臣、津島壽一、陸軍大臣、首相兼任、下村定、海軍大臣、米内光正、司法大臣、岩田宙造、の布陣で戦後処理内閣が当たることになった。終戦お終え見渡せば戦争追及を受けるもの多し、戦後処理に相応しく進駐軍、GHQと新日本を政治を責任を持て処理で人が、適任者は皇族の東久邇宮稔彦王より残されていなかった。皇族として陸軍大将の任を受け、戦処理の時代の要請に生きた人だった。
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重光葵(1887~1957)昭和初期の外交官東京帝国大卒後、ドイツ、イギリスと、中国と活躍し敗戦処理のミズリー号での調印式に託された。
*「東久邇宮」は苦渋の発言によって,国民の一人ひとりその責任を促し、戦後に取組むことを促、表明をしなければならなかった。(翌日東久邇宮首相記者会見で「1億総懺悔」発言。)
昭和20年8月18年 内務省、占領軍向け性的慰安 施設設置指令。(8月26日特殊慰安施設設置協会(RAA)設立。8月27日「小町園」が大森海岸に開業。)
*内務省は全国の警察に対して連合軍の将兵向けに慰安所の設置を指令、理由は日本の子女を性犯罪から守る為と言う大義名分を基に日本各地に設けられたという。
昭和20年8月28日 連合軍先遣隊が厚木基地に到着。連合総司令部を(GHQ)を横浜に設置。〔後9月15日に日比谷の第一ビルに移転〕
昭和20年8月30日 連合国最高司令官ダグラス・マカッサー、厚木基地に到着。
*厚木基地に「連合軍総司令官」ダグラス、マカッサーがパイプを燻らせながらサングラスを掛けて日本を眺め窺っているような姿を写真で日本人が知ったのではないか。
昭和20年9月2日 東京湾ミズリー号の艦上で降伏文書に調印。
*連合軍軍高官がミズリー号に乗艦した。ニッミツ海軍元帥が次ぎに連合軍最高司令官ダグラス・マカッサー 陸軍元帥が乗艦した。日本側全権代表は重光葵政府全権外務大臣と梅津大本営全権と10名ほどの大本営 参謀が乗り込んだ。始めにマカッサー元帥が降伏文書を23分に渡り読み世界中に放送された。終了と共にボ ーイングB=29祝賀飛行を行なった。
昭和20年9月8日 米軍ジープで東京に進駐。
*MPと言えばジープ、アメリカ軍の占領の光景であった。
昭和20年9月11日 GHQ東条英機ら39人の戦争犯罪人を逮捕。
昭和20年9月20日 「ポツダム宣言を受諾に伴い発する命令関する件」公布。
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ポツダム宣言は、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国およびイギリスの首脳が、1945年7月26日に大日本帝国に対して発した、第二次世界大戦、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。ソビエト連邦(ソ連)は後から加わり追認した。「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。
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吾等米、英,中の首脳は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
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3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。
二 日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
三 吾等の条件は以下のとおりであり、これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない。
四 日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。
五 第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
七 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
八 日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化すること。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
十日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解かれる
昭和20年9月22日 米政府「降伏後における米国の初期の対日方針」を発表。
事実上米国単独の占領を規定。
昭和20年9月27日 天皇 マカッサーを訪問。
*天皇はマカッサーを訪問する。人間天皇はマカッサーと並んで撮られた写真が始めてニュースとなって国民が目にすることになる。
昭和20年9月10日 GHQ、「言論及び新聞の自由に関する覚書」交付、占領軍などに関して報道制限。
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総司令部が政策の始めに行った事は検閲であった。昭和20年9月に発した「プレスコート」などによって、軍国主義的なもの、戦前の日本を肯定するもの、占領軍、連合軍の行為を批判をするもの、「原子爆弾」の無差別空襲を被害を知らしめ広めるものに、警戒感を深めていて、日本の不満分子の扇動を特に嫌ったようだ。 ラジオ、新聞、雑誌、一般市民の発行の本に至るまで厳しく取り締まった。これらの報道に違反したとして「朝日新聞社」は二日間の業務停止命令が下された。「掲載禁止、削除理由の類型」戦前の時代賛美、封建思想の賛美など細部にわたり、30項目も設けられた。
占領軍の悪口、批判、印象を悪くするような、言動で不安や不満感を煽る行為は占領当時GHQは警戒をしていた、律儀で秩序ただしく、真面目な日本人は占領軍と内戦、紛争を行なう者がなかったことは日を重ねるに従ってそることになる。更に上記「検閲方針」に違反するものは米軍の軍事法廷で訴追された。その処罰として沖縄における強制重労働3年から5年であった。(こういった米軍の抑制にアメリカ文化の普及浸透にアメリカ映画を積極的に導入「アメリナイズ」に力を注いだ。一方国産の映画化には程遠く街頭のロケさえ出来ない状態で映画化にはGHQも消極的であったようだ。
昭和20年9月22日 放射能・原子力の研究の禁止命令。
昭和20年10月2日 GHQ「民権自由に関する指令」を発令(天皇に関する自由討議や政治犯の釈放、思想警察の撤廃など。)
昭和20年10月5日 東久邇宮内閣・同指令実行不可能として総辞職する。
昭和20年10月9日 GHQ、五大新聞の事前検閲の開始。
昭和20年10月9日 幣原内閣成立。
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内閣総理大臣幣原喜三郎、男爵貴族議員・日本進歩党
外務大臣 吉田茂(再任)官僚外務省・貴族議員
内務大臣 堀切善次郎
大蔵大臣 澁澤敬三 貴族研究会
陸軍大臣 下村定(再任)
海軍大臣 米内 光政 司法大臣 岩田宙造 文部大臣 前田多門 諸大臣他
公職追放後又新たな内閣改造が行なわれた。
昭和20年10月3日 文部省、柔剣道、教練の全面禁止。
*教育方針には連合軍に矯正させ、教育基本法を制定て、6・3・3・4制の学校制度を新設し、複線教育と教育勅語を廃止させた。
昭和20年10月10日 政府、政治犯439人釈放。共産党合法化。
昭和20年10月11日 マカッサー幣原内閣に民主化に関する5大改革を(婦人の開放、
労働組合の奨励、秘密諮問司法制度の撤廃、経済制度の民主主義化)
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婦人参政権が認められ男女平等と組合活動の合法化を進め、経済活動の民主化。
昭和20年10月22日 GHQ、軍国主義的、超国家主義的教育の禁止を通達。
*教育勅語を中心に天皇を利用し中心とした国家観の排除にあった。
昭和20年10月30日 GHQ、軍国主義教育者の追放を通達。
昭和20年11月6日 GHQ、持株会社の解体に関する覚書を発表(財界解体の発端)
昭和20年11月15日 GHQ,東京劇場で上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義として中止を通達。
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映画などであだ討ち物、忠臣蔵などは禁じられた。
昭和20年11月18日 GHQ,航空間系の教育、研究の禁止。
昭和20年11月19日 GHQ、軍国主義的映画236本の上映禁止と焼却を通達。
昭和20年12月6日 GHQ、近衛文麿・木戸幸一ら9人の逮捕を命令。
(12月16日)近衛文麿、服毒自殺をする。
*近衛文麿(1891~1945)政治家篤磨呂の長子と生まれ京大卒、貴族議員を経て1937年三度目の組閣、その間大翼賛会戦後、出頭命令を受け服毒自殺をする。
昭和20年12月6日 GHQ、農地改革に関する覚書を発表。農地改革の発端。
昭和20年12月15日 GHQ、国家神道など宗教と政治の分離を通達。
*国家神道として靖国神社の国との分離にあった。
昭和20年12月24日GHQ、東京宝塚劇場を接収。(アーニー=バイル劇場と改称)
昭和20年12月24日 GHQ、電波関係研究、6項目も禁止。
昭和20年12月29日 第一次の農地改革。不在地主の全小作地と在村地主の5町歩を越える小作地の強制譲渡など。
*GHQの農地改革によって一握りの大地主から強制的に土地を買い取り小作人に分配した。古来日本の大地主拠る経済的な奴隷から開放した功績はあるもの、自作農家の保守化させるっけとなり、大規模な農業事業を難しくさせ、農協と一体となって保守化となって、国際競争力を無くし、自給自足率の低下に繫がったといわれている。
昭和20年12月31日 GHQ、修身・日本歴史及び地理の授業停止と教科書回収の関する覚書を交付。
昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書(人間宣言)発布。
昭和21年1月2日 GHQ,軍国主義者等の公職追放指令。
* 公職追放は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止されたことをいい、本項で扱う。昭和21年勅令形式で公布・施行された「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令」昭和22年勅令第1号で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。
公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすることによって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因に なるという公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。
逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。
その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化から、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換され、主な対象者は次第に共産主義者やそのシンパとなっていった(逆コース、レッドパージ)。
また、講和が近づくと1950年に第一次追放解除(石井光次郎・安藤正純・平野力三ら政治家及び旧軍人の一部)が行われた。翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された(なお、この直前に岡田啓介・宇垣一成・重光葵ら元閣僚級の追放も解除されており、同法施行まで追放状 態に置かれていたのは、岸信介ら約5,500名程であった)。
昭和21年1月13日 幣原内閣改造(GHQの公職追放の指令により閣僚を入れ替え。
*公職追放に連座された人々、赤城宗徳 は公職追放。追放解除後、農林大臣、官房長官、防衛庁長官などを歴任。石井光次郎、 公職追放、解除されると、朝日放送社長を経て政界に復帰。後に衆議院議長。石橋湛山 、 政治家、ジャーナリスト。公職追放。戦時中も一貫して軍部を批判し続けていた石橋の追放には厳しい批判が続出した。1951年追放解除。1957年に内閣総理大臣に就任。石原莞爾、 軍人、満州事変指揮を勤めた人物。軍国主義者と理由で昭和23年1月に追放され、追放解除しないまま死去。市川房枝、緒方竹虎、鳩山一郎 、東久邇稔彦、、三木武吉、などは公職追放され1951年に追放解除。
昭和21年1月28日 GHQ、映画の検閲を開始。
*映倫の始まり。
昭和21年2月3日 マカッサー、GHQ民政局に戦争放棄など3原則を示し憲法の草案の作成を命令。
*戦後日本の憲法の作成は企画考案はGHQ民政局指導で、「戦争放棄」盛り込み、日本の恒久へ平和の名の下に草案を作成を命令をした。日本国憲法は最早米国に都合の良い方向性を意味を持ち再軍備の起こらない「戦争放棄」を盛り込む事で軍事面で日本との対立、戦争を起こさせない条項を盛り込む事に意図があったようだ。
昭和21年2月13日 GHQ,憲法草案を日本政府に手交。
*GHQは一部の知識人唯識者のみの密室で仕上げた草案を日本政府に手渡した。
昭和21年5月3日 極東軍事裁判〔東京裁判〕が開廷。東条英機らA級戦犯28人を起訴。
昭和21年5月4日 GHQ、5月3日覚書で鳩山一郎の公職追放を通達。
昭和21年6月17日 キーナン主席検事「天皇は訴追せず」の判断が下された。
*天皇の戦争責任について色んな思惑と、日本人の歴史認識を鑑みた場合の判断だったのだろう。それによって国際的に大きな批判を受けることが無かった事は、一部の軍部が天皇制を利用した事を知っていたからかも知れない。
昭和21年6月29日 GHQ、前学校の地理授業の再開を許可。〔10月12日日本史も再開〕
昭和21年10月21日 農地調整法改正、「第二農地改革法」
*GHQのマカッサーの農地改革は本格的に行なわれた、寄生地主が日本軍国主義に加担したとして地主が保有する農地を、政府が強制的に安価で買い上げ実際に工作をしていた小作人に売り渡された。全国的に行なわれた農地改革は七割近い農地が小作人に換わった。
昭和21年11月3日 日本国憲法公布〔施行47年5月3日〕
昭和22年1月31日 GHQ、ゼネスト中止命令。(1月18日より官公庁労組共闘委員会。
昭和22年月4日 GHQ、公職追放を経済、言論界、地方公職などに拡大、約20万人に拡大。
昭和22年5月6日 天皇、マカッサーとの第四回会談「日本の安全につきマカッサーに期待」
昭和23年7月31日 マカッサー書簡に基づき政令201号公布8公務員のスト権、団体交渉権否認。
昭和23年11月12日 東京裁判、25被告に有罪判決。12月24日東条英機他七人の絞首刑が執行。
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ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルグ法廷が連合国管理下に基づいてて行われたのと違って日本の裁判はダグラス・マッカッサー連合軍司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行なわれた。罪状は東条英機を含め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くと言うもので、通常の戦争犯罪に加えて「平和に対する罪」でも起訴された。この極東裁判、東京裁判に肯定論は「文明」の名の下で「法と正義」によって裁判を行なったという意味でで文明の裁きと呼ばれているが、一方否定論では事後法の遡及的適用で裁く全ての者が戦勝国が任命、戦勝国への行為は全て不問だったことで「勝者の裁き」とも呼ばれた。判事はイギリス、インド、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストリア、ニュージーランド、カナダ、フィリッピン、ソ連の11カ国だった。
連合国の中に天皇の戦争責任を問う発言もあったが、戦後日本の復興に天皇の存在が必要と認めた。(天皇自身も私が退位して全責任を取る事で収めてもらえないかと)発言されたと言われている。
昭和23年12月18日 GHQ、歳出引き締め、均衡予算、徴税強化など経済安定9原則を発表。
昭和24年3月1日 GHQ経済顧問ジョセフ=ドッジ、収支均衡予算の編成の指示(超均衡予算、補助金全
廃、復興金融金庫の貸出停止などのドッジ=ラインを実施を要求)以降、不況深刻化。
*ドッジラインは日本経済の自立と安定の為に実施された金融引き締め政策。インフレ・国内消費を制御と輸出振興が軸、GHQ経済顧問として来日したデトロイト銀行の頭取のジョセフ・ドッジが立案勧告した。GHQが示した経済安定9原則の実施策であった。来日したドッジ氏は記者団への会見で「日本経済は両足を地に着けていない、竹馬に乗っているようなもの、竹馬の片足は米国の援助、片足は国内的補助金であると言った。竹足の足が長すぎると転んで首を折りことになる」言った。以後日本では「竹馬経済」と言う流行語が生まれた。結果インフレは治まったが、逆デフレが進行し、失業や倒産が相次ぎ「ドッジ不況」引き起こされた。
昭和24年4月23日 GHQ,1ドル360円の単一為替レート設定。
昭和24年6月14日 GHQの要請から映画倫理規定管理員会発足(映倫)
昭和24年9月 教員に レットパージ始まる。〔1700人追放〕
*レットパージは連合軍占領下の日本においてマッカーサーの指令によって、日本共産党とシンパと同調者が公職を追放された。公務員や民間企業において1万人に越える人々が失職をした。これらを「赤狩り」と呼ばれた。第二次世界大戦終結後日本共産党も合法的活動を始めたが、労働運動の激化、中華人民共和国の成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になり1950年5月日本共産党の非合法化を示唆した。
昭和24年11月 GHQの許可により、アドバルーンの復活。
*戦前のアドバルーンでさえ4年余りかかって復活が許された。
昭和24年12月20日 GHQ、需要物資統制を撤廃。
昭和25年1月1日 マカッサー、年頭の辞で「日本国憲法は自己防衛権否定せず」声明。
*戦争放棄で平和憲法を押し付けたマッカッサーは再軍備の必要性に迫られた、そこで立案草案者のマッカッサーは「日本国憲法は自己防衛権を否定せず」をわざわざ声明を発表した。
昭和25年6月6日 マカッサーは共産党の中央委員24人を公職追放(徳田主流派地下に潜行、共産党分裂。
昭和25年6月26日 マカッサー、共産党機関紙「アカハタ」を30日間発行停止(7月18日無期限停止。
昭和25年7月8日 マカッサー,75,000千人の警察予備隊の創設と海上保安員を8000人を増員を指示〔8月10日警察予備隊令を公布。〕
昭和25年7月24日 GHQ,新聞社に共産党とその同調者の追放と指示〔レットパージー始る〕
昭和25年9月1日 政府、公務員のレッドパージーの方針が決まる。(新聞、通信、マスコミ関係者中心に1万人以上)
昭和25年10月13日 政府、Ⅰ万90人の公職追放を解除。(11月10日旧軍人の3250人の追放解除、以後次々解除され、講話条約発効で公職追放は失効。
昭和25年8月30日 全労連の解散を指令。
昭和25年9月20日 米兵と日本女性との結婚禁止令を解除。
昭和26年四月11日 マカッサー、朝鮮戦争で強行策を主張してトールマン大統領と対立、解任。
昭和26年4月16日 マカッサー帰国。見送りの人達約20万に送る。
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日本人のアメリカ観を一変させて、強力な権限の基、日本人はマッカッサーの権力の大きさを思い知った。
日本人の一般庶民の表現に一番強く偉い者の例えに「あんたはマッカサーや」と言ったものだ。
昭和26年9月4日 サンフランシスコ講和会議開催。
昭和26年9月8日 対日講和条約調印。日米安全保障条約調印。
*日本政府は終戦によって軍人や強行政治家が失脚し、吉田茂など国際派が実権を握った。戦後復古を円滑にするためにも、高額賠償金の支払い回避し寛大な講話を目指し、日本政府が「良き敗者」を田らは健全な戦後復興のために、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。一方、冷戦の激化により、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。
これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島のアメリカによる信託統治の承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。
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