野崎観音 福聚山 「慈眼寺」曹洞宗 本尊十一観世音菩薩
大阪を一望のできる屈指の眺望は古くより、大阪庶民の信仰を集め、特に大阪庶民、商人(大店の旦那衆)の芸者を引き連れ賑やかに「野崎参り」したのは有名である。東海林太郎の歌謡宇の「野崎小唄」(野崎参りは・・・屋形船で参いろか・)落語の「野崎参り」は船で行く人、歩く人の掛け合いで話が進む野崎参りは、大阪から寺の下まで川が流れていたので、船の往来が盛んだった。
寺伝によれば、今から千三百年余り前。行基が開山、元は摂津江口に有った寺を(江口の君)長者が摂津から平安時代にこの地に移したという。その後信長の松永秀久攻めで焼失、曹洞宗の禅僧青厳が再建した。元禄時代に平野屋五兵衛が本堂を寄進、この頃より野崎参りが盛んになり、大塩平八郎の乱では茨田群士の仲間をかくまった。近松半二の「お染久松」舞台荷もなりその塚あり、文楽、落語、歌謡と大阪庶民に取って馴染みの深い観音さんである。
(観音さまを、かこつけて、逢いに北やら南やら、お染は思い久松の、あとを慕うて)
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