2011年5月28日土曜日

一ノ宮探訪播磨国伊和神社

「一ノ宮探訪」 播磨一ノ宮 伊和神社
播磨一ノ宮は高速は中国道を山崎で下り、北に(し)(そう)(し)に流れる揖斐川に沿って一宮町の、因幡街道国道29号線に面している。深々とした樹木に包まれ、播磨国と言う広大な面積を持つ一ノ宮に大巳貴命が鎮座している。配神に少彦名神、下照姫神を祭り、国造りの神、大国主神はこの播磨国内を廻り国を平らげ最後に、この地、伊和里に至り、ひとまず仕事を終え「おわ」と仰せられて鎮まれたと社伝が伝える。創建は成務年間、或いは欽明年間と伝えられ、伊和垣郷に「我れを祀れ」とご神託があって、一夜の内に杉、桧などが群生し、鶴が舞い降りたという、その大きな二羽二は石上に北向きと留まっていたと言う。その所に社殿を創建されたという。本殿の裏側に「鶴石」が鎮座していている。より、揖保川辺りは縄文土器などが出土し、弥生時代には有力な氏族、豪族の祖神を祀った伊和君一族の居住地と、銅鐸やなど青銅に携わる氏族の鍛治氏族の「青銅の神」伝承と相まって、その土着の地主神としての伊和大神との関連性や「播磨国風土記」にある近隣の吉備国や出雲国の強い影響もあって、祭神「大国主命」の播磨国平定の最終地に物語れたのかも知れない。その後中央の大和大権の支配を受けたのではないだろうか、また伊和神社の広大な領域は境内末社に留まらず、旧境外摂末社が何を語るか、境内末社には五柱社・祭神天照大神、宇賀魂神、国底立神、市杵島姫神社・祭神市杵島姫命、播磨十六郡神社・祭神播磨旧十六郡内の式内社を祀る。御霊殿・祭神伊和恒郷命、各戦死者。旧境外摂末社・与位神社・祭神素盞鳴尊、稲田姫命山崎町与位にあり。庭田神社・事代主神、一ノ宮能倉付近にあり。     邇志神社・祭神伊弉諾命、伊弉冊命、須佐之男命は波賀町皆木にあり。觱篥神社・大巳貴命、山崎町須賀沢にあり。安志姫神社・祭神安志姫命、安富町三森にあり。こう言った一円に広まった摂社は何を意味するのか、先住の祖神の神々と、吉備、出雲の神の土着に後発の大和の神々なのかも知れない。
格式において、延喜式に名神大社に列せられ、明治に県社に、その後国幣小社、国幣中社に戦前まで列せられた。また古くより、播磨国一ノ宮として地域に崇められ信仰されている。また時代の趨勢に時の武人の寄進などが窺え、足利尊氏の追討に新田義貞祈願し、また赤松正則寄進、池田輝政寄進、松平常元寄進、池田政元寄進があって、造営にも朝廷や、領主などの加護で再建されたりしている。
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2011年5月6日金曜日

浪速今昔百景(十一)生國魂神社

浪速今昔百景(十一)生國魂神社

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浪速今昔百景(十一)生國魂神社
古代より上町台地に鎮座する。難波大社と呼ばれ、創建は神武天皇が東征の時に難波津に上陸されたときに神武天皇が、国土の神である生島神、足島神を今の大阪城辺りに祀ったのが始まりと伝わる。飛鳥時代、孝徳天皇の時代には神域であった事を日本書紀が伝え祭神の生島大神、足島大神大八洲の御神霊と記されている。平安時代には宮中に於いても生島巫によって祀られ、難波の海浜での古代祭祀「八十島祭」の主祭神である。当初は今の大阪城辺りに祀られていたが、信長とも一向宗の石山合戦によって焼失したために豊臣秀吉が大阪城築城のときに現在の地に寄進したと伝えられている。その時に造営された社殿は千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風の三重に破風を乗せるといった様式であった。所が大坂夏に陣で出炎上焼失した。その後徳川の世で秀忠が再建したが太平洋戦争の空襲で焼失した。戦後昭和二十四年に木造の社殿を再建されたが、翌年にジエーン台風で倒壊し昭和三十一年に鉄筋コンクリートの生国魂造りの本殿を再建された。「いくたま夏祭」は生玉、天満、住吉と大阪三大祭である。広い境内には池や庭園に様ざま石碑がこの神社の由緒、社格を物語り、上方芸能文化発祥の地として、上方落語の始祖、米澤彦八を顕彰する「彦八まつり」も知られている。摂社も十一社を数え淀君を祀る守護神「鴫野神社」や近津門左衛門を始め文楽の関係者を祀る「浄瑠璃神社」が鎮座している。


2011年5月5日木曜日

浪速今昔百景10清水寺(玉出の滝)

浪速今昔百景(十)清水寺(玉出の滝

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浪速今昔百景(十)清水寺(玉出の滝)
大阪の都心の四天王寺から北に、谷町筋から少し入った所に和宗四天王寺の末寺の清水寺がある。西に向かって天王寺七坂の階段状から狭い境内がある。本尊は十一面観音菩薩で摂津八十八カ寺の札所である。こんな都心に玉出の滝と言われる行場がある。京都清水の滝を模して作られているそうである。不動尊不動明王は観音菩薩の化身とされている。境内の斜面から突き出た石溝から水が落ちている。市内で唯一の自然の滝であるそうだ、滝の奥の石窟には二童子や八大龍王神が祀られている。本尊の十一面観音菩薩は聖徳太子の作とされている。戦後まもなくの光景ではビルも無く大阪市内を一望が出来て高台の舞台からの眺望は、京都は清水寺から見る光景に似ていたそうである。

2011年5月2日月曜日

浪速今昔百景⑨太平寺

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浪速今昔百景(九)太平寺「十三まいり」
摂州 護国山 大阪十三仏十三番札所。北山不動。  
地下鉄谷町線谷九駅から八分、都心の谷町筋の通利に面し、赤いのぼりの旗が有って大きく「十三まいり」と書いてあって「十三仏まいり」とは江戸の「七五三」に対して大坂、京都で盛んに行なわれた行事で、十三歳になった男女が「虚空蔵菩薩」の縁日三月十三日、四月十三日にお参りすると福徳と知恵を授かるという。
「大阪歳時記」には(十三日に因み十三歳になる子供が夕陽ガ丘の「太平寺」と言う曹洞宗のお寺に智慧を授けてもらうためにお参りをしたものらしい。
こんな会話がつい最近まで浪速に町商人の日常に有った風景である。その願いの本尊は本堂に虚空蔵菩薩が祀られている。
本来この世の現世を、地上を受け持つ虚空蔵菩薩、地下の世界を地蔵菩薩が人々の苦悩を救う役割分担として受け持った仏様であるが、京都も「十三まいり」は盛んでかの蕪村も娘を嵯峨の法輪寺に虚空蔵菩薩に「十三まいり」をしている句がある。この寺の創建はもともと四天王寺の寺域に有って中には堂塔を外されて真言宗の龍翔寺になり、加賀の曹洞宗の超山和尚が幕府に願い出て再建したものである。元禄の頃皇室、大名の加護で栄え北側の北山不動が大いに参詣で栄えた。境内には「針塚」「筆塚」「茶筅塚」があって、北山不動が往時を偲ばせている。  

2011年5月1日日曜日

浪速今昔百景8天神さん(大阪天満宮)

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浪速今昔百景(八)天神さん(大阪天満宮)
日本三大祭の一つと大阪の夏祭りの代表の「夏大祭天神祭」は大川で執り行なわれる船渡御は百艘余りの供奉船が繰り出し水面を埋める。花火が川面照らし華やかに、賑やかに「だんじり囃子」に参詣道の天神橋商店街に人が溢れ百万人以上集まる。大阪は天下の台所、川筋に並ぶ各藩の蔵屋敷に豪商たちは豪華に飾ったかがり火船などを競って出した事に始まる。天満宮の祭神さんは菅原道真公、手力雄命、猿田彦命、野見宿禰である。元々は古代の難波長柄豊崎宮を守護する、地主神が鎮座する大将軍社の森だったという。平安時代に村上天皇の勅願によって菅原道真公を主祭神にした。理由は菅原道真公への策略によって大宰府に流されて途中、立寄った事に由来する。大宰府で無念の死後、都に災難が続き、疫病が流行した、ゆわれなき罪に非業の死を恨みと考えられて怒りを鎮めるため諸国に一万二千社余り建立された。境内には談林俳諧の祖西山宗因ゆかりの向栄庵跡碑や松尾芭蕉の「行く年や、薬に見たき、梅の花」の句碑があって、浪速に連歌が流行り歌師宗祇が千百発句を献じた。また浪速の豪商淀屋辰五郎らの連歌が盛んに行なわれた。商人の町大阪は商人と共に栄え大阪の町々の鎮守として、商売繁盛の願掛けに栄えたが、南北朝時代には楠木正成の嫡男正行と北朝側の山名時氏との戦いで焼失、元亀元年の信長と門徒宗の石山合戦で戦禍に逢い、天保八年の大塩平八郎の乱で焼失した。その後今日西暦一八四五年に再建されの現在の権現造りの社殿に再建された。
大阪天満宮の天神信仰は文人で学問を司る博士で、その遺徳を偲び、学問の徳を願い、人々はこぞって御参りをする。特に入試などの絵馬や願掛けは毎年全国より参集し京都は北野天満宮、九州は大宰府天満宮と大阪天満宮と代表する天満宮である。