2009年6月29日月曜日

一ノ宮探訪   近江国一ノ宮建部大社

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「一ノ宮探訪」
近江の国一ノ宮
“建部大社”
 近江一ノ宮は瀬田の唐橋の東側に鎮座する。天下取り、天下分け目の要所の地が瀬田の「唐橋」である。天下に通じる橋は政変の舞台となっていた。壬申の乱、戦国の乱世、攻めるも守るも、架けられた橋を落とすか渡るかに懸かっていた。交通の要に近江一ノ宮”建部大社がある。近江の国一ノ宮として朝野の信仰厚く近江の国には式内社が一五五座、名神大社が十三座もあって日吉大社、多賀大社と居並ぶ大社の中で静寂の中に一ノ宮建部大社の大きな石碑が目に入り参道を左に鳥居奥に本殿が見える。祭神は本殿日本武尊、権殿大己貴命である。摂社四社には聖宮神社(第十二代景行天皇)大政所神社(景行天皇の后)藤宮神社(日本武尊の妃)若宮神社(日本武尊の御子)末社には八社がある、行事神社、弓取神社、葥取神社、蔵人神社、大野神社、稲荷神社、八柱神社、桧山神社がある。
 建部大社の由来には祭祀の日本武尊が熊襲、東夷の平定後に三十二歳にして伊勢の熊褒野に於いて崩御された、景行天皇の神勅により御妃布多遅比売命(父近江の国造り)が御子稲依別王が神崎郡建部の郷の地に尊の神霊を奉斎されたのが始まりと言う。
 武運の神として古来より武門の信仰が多く頼朝は十四歳にして平家に捕らわれて伊豆に流される時当社に参拝されたと(平治物語記載)言う。
 権殿に祀られている大己貴命は大和の大神神社の大己貴命を勧請して祀ったのが始まりという。社宝として木造女神像三体(重文)で平安時代のものと言われ恥らう珍しい姿でその表情は悲嘆にくれる表情とも言われ日本武尊妃、布多遅比売命と伝わる。境内の石灯篭(重文)は鎌倉中期のものと伝わり近江で最古も石燈篭と言われる。
 祭礼で有名なのは「船幸祭」と言って大御輿を乗せた御座船が瀬田川を巡行する。

2009年6月26日金曜日

一ノ宮探訪  和泉国一宮 大鳥神社

「一ノ宮探訪」
和泉国一ノ宮
”大鳥神社“
大鳥神社は堺のJR鳳駅北にある、近くに仁徳陵と古代古墳時代と神話の世界を結びつける関連性をフト思わせる地域にある。広大な神域を持つ境内は近年になるまで手付かずの区域があったという。祭神は日本武命、大鳥連祖神である。この地は大鳥連の本拠地で明治になって、祭神日本武命を祀って官幣大社となった。和泉の国は式内社六十二坐、名神大社は一坐で畿内では少ない方だが古墳の多さとは反比例しているのも謎である。
祭神の日本武命は景行天皇の第二子で、その武勇は広く知られている。東征の帰還の途中で伊勢の地で病に倒れ崩御、遺体は白鳥と化して飛び去り最後にこの地に留まられたので社殿を建立しお祀りしたのが始まりと言う。また大鳥連祖神は中臣連と同じ祖先で天児屋根命である。境内には日本武銅像もあって、古くより文武の神として歴代の武士の崇拝、信仰厚く平清盛、重盛、織田家、豊臣家、徳川家の社領の寄進があった。聖武天皇の代に行基によって勧学院神鳳寺が建立されたが神仏分離令で廃寺された。摂社として美波比神社、大鳥北濱神社、大鳥濱神社、大鳥井瀬神社がある。
* 日本武尊は景行天皇の皇子「記紀」に出てくる伝説の英雄で熊襲征服に能會建兄弟を女装して討伐、その後東夷征伐では、駿河、相模、上総を平定し帰途伊吹山の悪神のため病を得て伊勢の地で客死した。

2009年6月20日土曜日

神仏霊場巡り   平安神宮

Posted by Picasa神仏霊場巡り平安神宮
祭神は京都に遷都した桓武天皇、長岡京から遷都以来千百年の記念事業として明治二十八年、皇居の皇霊殿から桓武天皇の皇霊から分離された。
京都の神社のうちで絢爛豪華の社殿は何と言っても平安神宮である左右両社殿は鳥が両翼を広げた如く、まるで三層は龍宮城を思わせるものである。また京都三大祭の時代祭は平安遷都から明治維新までを時代風俗、装束で時代絵巻が
繰り広げられる。

神仏霊場平安神宮神苑の池

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平安神宮神苑の水連

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神仏霊場巡り真正極楽寺

Posted by Picasa神仏霊場巡り  真正極楽寺
吉田山の南西に一般観光ルートから少しは離れていて古刹名刹に相応しい静寂にある。地元では「真如堂さん」と呼ばれている、開山は天台宗は慈覚大師(円仁)刻んだ阿弥陀如来に戒算上人が祀ったのが始まりと言う。その後戦禍に転々とするが朝廷の信仰厚く再建された、特に後醍醐天皇、後村上天皇の信任厚く加護があった。境内には総門、三重塔、本堂、元三堂、望楼など重厚な堂塔に阿弥陀如来立像(重文)など寺宝が多い。

神仏霊場巡り    吉田神社

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神仏霊場巡り 真正極楽寺

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神仏霊場巡り  吉田神社

Posted by Picasa神仏霊場巡り  吉田神社
京都吉田山の麓、京都大学の東に朱塗りの大鳥が見える。祭神は四神で健御賀豆知命、伊波比主命、は共に天照大神の大命で大国主命に勅命を伝え、この国が天孫に献奉を諸国に巡り民に、国土平定の功を立てられた神である。天之子八根命は天照大神が天の岩戸に隠れられた時に功を立てられ藤原氏の祖神である、比売神は天之子八根命の妃神の春日社の四神を勧請し祀られた。創建は清和天皇の頃に京都における藤原氏の氏神として藤原山影が祀ったのが始まりと言う。その後神職の吉田兼倶が吉田神道を確立し日本の神道界に絶大なる権威を誇った。




神仏霊場巡り  聖護院

Posted by Picasa神仏霊場巡り  聖護院
山伏の創設者の行者を宗祖として天台宗の円珍を経て、白河天皇の熊野詣の先達を務めた増誉を経て後白河天皇の皇子が四世になってからは宮門跡となった、その後兵火に遭い足利将軍義政再建し出家をしている。その後の度々の戦火に再建され秀吉が移転させ現在の地に再建された。

2009年6月17日水曜日

神仏霊場巡り  橿原神宮

神仏霊場 神仏霊場巡り 橿原神宮
橿原神宮の祭神は神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛皇后、橿原神宮は建国創業の地として最も由縁の深い畝傍山の麓に明治天皇の御聖徳により、明治二十三年四月二日に鎮座された。その荘厳な外拝殿はわが国隋随一重厚な拝殿であろう、また大和朝廷の発祥の地に、大和三山の古代の聖地に相応しい神殿である。
神域は四十九万平方米という広大な面積に京都御所の賢所を本殿に、神嘉殿を神楽殿に移築したもので、昭和十五年に拡充された。皇祖の祖神の主神とする神社はなかった。建国の祖として九州の高千穂の宮より東征され国内を統一された。神武天皇は天孫降臨の神から人間へ、日本国民の源流と成すものの原点に相応しい橿原神宮が、その中心なのかもしれない。

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神仏霊場巡り 橿原神宮深田池

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神仏霊場巡り 廣瀬大社

神仏霊場巡り  廣瀬大社
法隆寺の南側の川の流域に鎮座する廣瀬大社は水を司る神さんである。祭神若宇加能売命、相殿に櫛玉命、穂雷命が祀られている。社伝に縁れば祟神天皇の世に廣瀬の河合の里長に御神託があって、一夜に沼地が陸地に、橘が覆い繁り、この地に社殿が建てられたと言う。その後天武天皇が小錦中間人連を遣わし大忌神を祀られたと記されている。社格は延喜式には名神大社、月次とされ朝廷より厚い信仰があって明治に官幣大社となった。何よりこの神社を有名に知られているのが「砂かけ祭」で厄除けと、御田植水口祭礼と水府舞が今日に受け継がれ午前の「殿上の儀」と午後の「庭上の儀」があって拝殿や境内を田に見立てて砂をかけあう神事である。神事は砂を雨に見立て五穀豊穣と神事に食べられる「田餅」を食べると、一年無病息災とされている。水神ならではの全国に知られた奇祭である。





神仏霊場巡り  廣瀬大社
法隆寺の南側の川の流域に鎮座する廣瀬大社は水を司る神さんである。祭神若宇加能売命、相殿に櫛玉命、穂雷命が祀られている。社伝に縁れば祟神天皇の世に廣瀬の河合の里長に御神託があって、一夜に沼地が陸地に、橘が覆い繁り、この地に社殿が建てられたと言う。その後天武天皇が小錦中間人連を遣わし大忌神を祀られたと記されている。社格は延喜式には名神大社、月次とされ朝廷より厚い信仰があって明治に官幣大社となった。何よりこの神社を有名に知られているのが「砂かけ祭」で厄除けと、御田植水口祭礼と水府舞が今日に受け継がれ午前の「殿上の儀」と午後の「庭上の儀」があって拝殿や境内を田に見立てて砂をかけあう神事である。神事は砂を雨に見立て五穀豊穣と神事に食べられる「田餅」を食べると、一年無病息災とされている。水神ならではの全国に知られた奇祭である。




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神仏霊場巡り  帯解寺

神仏霊場巡り   帯解寺
「帯解地蔵さん」で地元はもとより古くは平安時代、江戸時代の天皇、将軍の子授け地蔵として霊験あらたかな信仰の寺として有名である。奈良市は今市町は昔ながらの町並みを狭い道をやっとの思いで寺院に着いたが、この寺院の創建は弘法大師の師の勤操で宗旨は東大寺を本山とする華厳宗である、何よりこの寺を、有名にさせたのは平安時代子宝の恵まれなかった文得天皇の妃の藤原明子に祈願したところ無事の出産したのが清和天皇であった。その後戦国時代に松永弾正の放火で焼失したが徳川二代将軍家光の嫡男の子宝に恵まれず祈願し授かったので家光がこの寺を再建したと言う。近年美智子皇后、始め皇族方の岩田帯献上の縁の寺である。


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