“河内史跡探訪 木村重成の墓
大阪夏の陣は河内一円戦場となった。八尾市は幸町は萱振付近、東大阪市の若江と隣接するところに、大阪方の豊臣家の重臣で木村重成の墓がある。勇敢に武士の中の武士とまで言わせた木村重成は負け戦と知りながら、井伊軍と再度戦い井伊軍の山口重信軍と戦い共に討ち死にした。重成の首を討ち取った安藤長三郎の祖孫が重成の菩提に弔い為に墓碑を立てた。また数々の大阪方の武士の首級をこの地より南の定光寺で徳川方によって行なわれ、逸話に家康が重成の首実験に立会いこう褒め称えたと言う、「長門守木村重成は武士の中の武士」とほめた、重成の髷には香が結わいつけて、首を召し取られる事を覚悟、香を匂わせ見苦しき最期を敵に見せない、武士のたしなみ、心意気を見ることが出来る。
大阪夏の陣は河内一円戦場となった。八尾市は幸町は萱振付近、東大阪市の若江と隣接するところに、大阪方の豊臣家の重臣で木村重成の墓がある。勇敢に武士の中の武士とまで言わせた木村重成は負け戦と知りながら、井伊軍と再度戦い井伊軍の山口重信軍と戦い共に討ち死にした。重成の首を討ち取った安藤長三郎の祖孫が重成の菩提に弔い為に墓碑を立てた。また数々の大阪方の武士の首級をこの地より南の定光寺で徳川方によって行なわれ、逸話に家康が重成の首実験に立会いこう褒め称えたと言う、「長門守木村重成は武士の中の武士」とほめた、重成の髷には香が結わいつけて、首を召し取られる事を覚悟、香を匂わせ見苦しき最期を敵に見せない、武士のたしなみ、心意気を見ることが出来る。
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河内西国霊場の札所で融通念仏宗で本尊十一面観音は聖徳太子作と伝えられ物部氏追討の後に刻まれていた観音菩薩は四天王寺に安置、その後霊夢に観音菩薩が現れてこの寺にこられたという。
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東大阪は稲田に河内西国霊場札所の観音禪寺がある。臨済宗妙心寺の僧が建立した、大伽藍の大寺は兵火に衰退してまったが大松の根元より聖観音が出土し御堂を設け三木城主の加護で再建、石平和尚が開基とした。
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浄土真宗の蓮如の六男蓮淳を開基として寺内町が作られ萱振御坊恵光寺中心に形成された、石山合戦に巻き込まれこの辺りは焼け野原になったと言う、大和川の付け替え後寺内町を中心に新田開発が行われ勢力が拡大していった。
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摂津88カ寺、摂津西国霊場の平林寺本尊は釈迦如来である。宝塚は武庫川渡り今津線のガードをくぐった山手にある。寺の周りには寺社が多く中でもこの寺が古風なたたずまないから古が分かる、記述によれば聖徳太子が摂津国七大寺を建立、その一寺がこの寺で、空海が入寺、戦国時代に消失したが再建された。
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東光寺は関西では厄除けで有名で真言宗で本尊は薬師如来、阪急今津線門戸厄神駅より山手にある、開山は嵯峨天皇勅願所、弘法大師が開基とれ幾多の戦火に逢って開基以来の経緯は分かっていないが厄除けの門戸厄神で広く信仰を集めている。
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西宮は北、甲山の山腹に真言宗で摂津西国霊場、摂津88所霊場の甲山大師がある、開山は淳和天皇の妃真井御前、本尊は如意輪融通観音、また弘法大師ゆかりの寺で、境内から見る西宮の眺めは必見である。
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神仏霊場巡り 青蓮院
東山は知恩院を北に粟田御所の名ある地に青蓮院がある。三千院、妙法院と並ぶ天台三門跡の一院、比叡山は三千堂の一つに東塔南谷に青蓮院坊に端を発し鳥羽法皇の勅で七子の覚快法親王が三条通りと白川に房に住寺して青蓮院と改称し青蓮院門跡寺院となった。青蓮院は代々明治に至るまで門主は皇族が勤め平安時代から鎌倉時代に掛け最も栄えて、皇族の帰依も深く、浄土真宗の祖親鸞もこの寺で九歳で得度し、本願寺の起この由縁の地であったために本願寺の法主は代々当院で得度しなければ公に認められなかった。応仁の乱に悉く焼失し、その後豊臣家、徳川家にも再建の帰依があった。この院の何より有名なのは「不動明王二童子画像」青不動で国宝中の国宝で日本三不動の一つである。また庭園は室町時代の相阿彌の作で、小堀遠州の補作とされ名庭園のひとつである。
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神仏霊場巡り 水無瀬神宮
大阪、京都の境目に三島郡島本町に水無瀬駅、西北側に水無瀬神宮がある。
承久の乱で隠岐に流され亡くなった後鳥羽天皇の離宮跡にその霊を慰めるために「御影堂」として創建されたのが始まりと言う。承久の乱で幕府に反旗を揚げた、後鳥羽天皇、土御門、順徳の三上皇を祭神として祀られた。後鳥羽上皇の寵臣だった藤原信成、親成親子への遺告の従い御影堂を建て冥福を祈った、また朝廷や幕府はその怨霊を恐れ積極的に保護をするようになり、室町中期「水無瀬宮」の称号を賜ったが、明治になって神社として「水無瀬神宮」と改称した。
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神仏霊場巡り 神峯山寺
高槻は今日と西山に抜ける東海自然歩道は「神峯山寺」の標識辺りから細い山道、車のすれ違いも難しい、曲がりくねった山間を行くと谷川の向こうに山門が見える。境内を行くと石段の上には、風雪を感じる古風な本堂には日本最初の毘沙門天霊場で古くより信仰され、別名多聞天と呼ばれ、開山は役行者で本尊の毘沙門天(別名多聞天)は役行者が刻んだものである。修行中の葛城山の山中で、北側の山中に光明を射すのを見てこの地に来た役行者は金毘羅童子に霊木を教えられ刻んだのが四方に光を放ち、一つが京都は鞍馬寺、一つは河内は信貴山の毘沙門天に、一つはこの山の北の峰に飛び散り、根元の残った像がこの寺の本尊になった。奈良時代には光仁天皇の子の開成皇子が帰依し多くの伽藍を寄進した。光仁天皇の勅願により境内には天皇の頭髪を納めた十三重の塔があり、その後に足利義満や豊臣秀頼の寄進が寄せられ大いに栄えたが江戸中期に多くの堂塔が焼失した、往時二十一坊もあった姿には戻らなかった。現在は五坊で法灯を役行者の伝統を受け継いでいる。
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壺井寺
河内は柏原市の法善寺、平安時代に法禅寺が建立されていたが戦火焼失しその後に再建されたのが壺井寺である。河内松原は丹南は布忍の大林寺の近くの永源寺の建物の資材そのまま移築されたという、珍しく寄棟造り重厚な造りである。現在は融通念仏宗として、この寺の本尊の阿弥陀如来の脇に避雷観音と言われる本体19.9センチ小さ白鳳時代の貴重な銅像として、な聖観音菩薩が厨子に祀られている。
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観音寺
柏原市は太平寺集落の山手の中腹にあって山寺と言う雰囲気の残る禅宗の古寺である。あの東大寺の建立のきっかけと成った「智識寺」の遺跡が点在するところで、河内六大寺の名残りと言われ、この辺りからと塔心礎や遺跡が発掘され記録にある、七堂伽藍を備えた大寺院が在ったと思われ、聖武天皇が立ち寄り東大寺建立の発心のきっかけとなった、観音寺の観音堂は名残言われている。河内西国札所として、また訪れ時にはヘチマ祈願法要の真っ最中でヘチマに願を込めて祈願をする変わった法要である。
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