観音寺
河内西国二十七番札所として石切神社の下手に融通念仏宗、観音寺がある。この辺りはこの地の豪族の水走氏があったところ、戦後はレンコン畑に田園風景だったが近年高速道路に工場地帯の中に観音寺がある。歴史は古く聖徳太子縁の寺、焼失し無住持が続いたが、開祖元興上人の墓と思われる石塔、元興上人の一刀彫と伝えられる千手観音菩薩、本尊の阿弥陀如来など安置されている、近年本堂は建て替えられて新しいが伝統は伝えられてる。
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菩提寺
河内西国二十九番札所、融通念仏宗の寺は、ひなびた古風たたずまい、善根寺功徳と言われ門を潜るともみじが境内を覆う、善根村の地名の元なった善根寺は聖徳太子が祈願したと言う。本堂は三百年前に建てられたもので歴史的建物で本尊脇待の小さな観音菩薩は香木伽羅で彫られた十一面観音菩薩である。
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神宮禅寺
河内西国第十八番札所として信貴山は服部川、門前に大きな楠木、臨済宗は妙心寺の末寺の寺、寺と言っても大きな堂塔はなく、その由来にある、その昔土地の豊門長者の信頼厚い、直宗和尚が丹波の守を開基として、豊門長者屋敷跡に創建したのが始まりと言う。開山直宗和尚が亡くなって三百年にこの寺の本尊の聖観音菩薩。門前にはこの長者屋敷に出入りする人々の馬が洗ったと言う池「馬洗い池」があり、石橋の渡ったところに稲荷社がある。
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常楽寺
河内西国二十五番札所として、信貴山は郡川、融通念仏宗の新大和川の付け替えの出来る前、大和川の支流、郡川の里辺に川辺観音と近隣に崇拝されていたそうで、十一面観音菩薩が本尊の阿弥陀如来の前立ちとして安置されていた。そのご南北朝の時に念佛聖の道場として、江戸時代には、秀伝和尚の時に融通念仏宗になり今日に至っている。
河内西国二十五番札所として、信貴山は郡川、融通念仏宗の新大和川の付け替えの出来る前、大和川の支流、郡川の里辺に川辺観音と近隣に崇拝されていたそうで、十一面観音菩薩が本尊の阿弥陀如来の前立ちとして安置されていた。そのご南北朝の時に念佛聖の道場として、江戸時代には、秀伝和尚の時に融通念仏宗になり今日に至っている。
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法蔵寺
信貴山に向かう山道に法蔵寺があって、眺望の良いところで堂々とした本堂に聖観音菩薩が安置、創建は土佐の長曾我部氏の子孫の好山和尚に曹洞宗の寺として開山、この地は古来、聖徳太子の縁の深い地で物部氏との戦いの折り砦の在った陣屋跡の場所と言われ、古墳の多いところで、また聖水の湧き出る所で龍神由来の神霊泉の伝説もある。重厚な本堂の天井には狩野得水による、龍の天上が見事に描かれている、襖などにも随所に描かれている。
信貴山に向かう山道に法蔵寺があって、眺望の良いところで堂々とした本堂に聖観音菩薩が安置、創建は土佐の長曾我部氏の子孫の好山和尚に曹洞宗の寺として開山、この地は古来、聖徳太子の縁の深い地で物部氏との戦いの折り砦の在った陣屋跡の場所と言われ、古墳の多いところで、また聖水の湧き出る所で龍神由来の神霊泉の伝説もある。重厚な本堂の天井には狩野得水による、龍の天上が見事に描かれている、襖などにも随所に描かれている。
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光明時
河内西国客番寺として、信貴山へのケーブルの麓にあって、中河内は中高安小学校の発祥の地となっていたところ、この辺りは融通念佛宗の多い所にあって、訪れた折りには真新しく本堂は建て替えられて落慶法要もまだで、境内の整備もこれからと言った所だった。忙しいところ快く朱印を押してもらいこの寺の本尊脇に安置されている十一面観音菩薩を御参りした。光明寺は元禄四年に秀山が中興祖他と伝えられ、融通念仏宗の開祖良人の教え光明遍照から付けた名前である。この境内から見下ろした河内平野の眺望は一見に値する。
河内西国客番寺として、信貴山へのケーブルの麓にあって、中河内は中高安小学校の発祥の地となっていたところ、この辺りは融通念佛宗の多い所にあって、訪れた折りには真新しく本堂は建て替えられて落慶法要もまだで、境内の整備もこれからと言った所だった。忙しいところ快く朱印を押してもらいこの寺の本尊脇に安置されている十一面観音菩薩を御参りした。光明寺は元禄四年に秀山が中興祖他と伝えられ、融通念仏宗の開祖良人の教え光明遍照から付けた名前である。この境内から見下ろした河内平野の眺望は一見に値する。
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法雲寺
美原町の田園風景の中に広大な寺域を持ちこの辺りでは最も大きく多くの伽藍を有する寺で禅宗は唐風の黄檗宗は法雲寺である。寺伝によれば法雲寺の前は弘法大師が創建の真言宗の大寺院であったが丹南地域の西除川の氾濫で流されて寺院は流失した。曹洞宗の僧宗月によって霊夢によって観音菩薩が掘り出されて、草庵を結びその後宗月は慧極禅師に住持を委ねた。境内は唐風の山門、天王殿に布袋さんであるが説明には弥勒菩薩と明記してある。本堂には本尊の三千三百三十三体の仏像回廊があって右手に開山堂と庭園をあわせ禅寺ならではの伽藍位置になっている。堂々たる禅寺である。
美原町の田園風景の中に広大な寺域を持ちこの辺りでは最も大きく多くの伽藍を有する寺で禅宗は唐風の黄檗宗は法雲寺である。寺伝によれば法雲寺の前は弘法大師が創建の真言宗の大寺院であったが丹南地域の西除川の氾濫で流されて寺院は流失した。曹洞宗の僧宗月によって霊夢によって観音菩薩が掘り出されて、草庵を結びその後宗月は慧極禅師に住持を委ねた。境内は唐風の山門、天王殿に布袋さんであるが説明には弥勒菩薩と明記してある。本堂には本尊の三千三百三十三体の仏像回廊があって右手に開山堂と庭園をあわせ禅寺ならではの伽藍位置になっている。堂々たる禅寺である。
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