太子の里は竹内街道沿いにあって、河内飛鳥として河内から大和に抜ける街道沿いには飛鳥、奈良時代の遺跡など多く点在し小高い丘陵地帯である。古来「竹内街道」は飛鳥、難波へと結ぶ重要な官道であった、推古陵古墳、用明陵古墳、敏達陵古墳、小野妹子の墓、孝徳陵古墳、そして聖徳太子廟など、特に太子の関わる遺跡が点在する“近つ飛鳥”と言われる古代の重要な拠点でもあった。太子町の地名にあるように「聖徳太子」縁の地である。「法隆寺」「四天王寺」「叡福寺」と太子信仰の中心をなす寺院で「叡福寺」は何れの宗派に所属しない珍しい寺院である。単一寺院として宗派を越えたお参りや、宗派間では特別な寺格を有している。
聖徳太子は生前この場所を墓所と定め、太子妃も母穴穂部間人皇后も陵墓に葬られ、太子没後に伯母の推古天皇が墓守を置かれ、その前に「香華寺」が建立されたのが始まりという。その後聖武天皇の発願で東院、西院の伽藍を配した「叡福寺」が建立されたという。
大和、河内の国境と難波への重要拠点で、大阪平野を見渡せる眺望と何時訪れても静寂と風格ある堂塔と、山を背に聖徳太子御廟がる。
太子縁の寺として歴代天皇、権力者参拝や平重盛も堂塔を修理の寄進をしている。日本仏教導入の祖としての墓所には、空海、親鸞、日蓮など仏教の開祖と言われる高僧の参篭の記録がある。この寺も時代の中で盛衰を重ね戦国時代信長によって焼失、豊臣秀頼によって再建された。多宝塔と聖霊殿は重文、金堂は江戸時代に建立、本尊の聖如意輪観音菩薩は鎌倉時代の作である。
叡福寺へは幾度もなく訪れているが、静寂と風雪に耐えた寺院のたたずまいと宗派色の少ない寺院と気付くが、時代の変動の中、奈良時代に聖武天皇の勅願によって東西二院形式の七伽藍の堂塔を建立し栄えた叡福寺は、戦国時代織田信長によって焼失し、豊臣秀頼によって叡福寺が再建された。
古びた重厚な、多宝塔(国重文)金堂は江戸時代に本尊の聖如意林観音像は鎌倉時代の作で、境内の奥まったところに聖霊殿(太子堂)一目見て墳墓の前の霊殿と分かり本尊が聖徳太子像(国重文)、また聖徳太子廟とされる墳墓は磯長(しなが)谷北側の斜面の地形を利用して築かれ円墳である。
叡福寺の向かいの道一つ隔て南側に長い石段の上に寺院が「西方院」であるが、寺伝に拠れば太子の乳母三人が太子の冥福を祈るために出家し太子廟の前にお堂を建立したのが始まりだと言う。
三人の乳母とは蘇我馬子の娘月益姫、小野妹子の娘日益姫、物部守屋の娘善照姫の三人の美姫の出家で三尼公と言われた。
当初叡福寺の塔頭の一つだったが叡福寺と同じく戦禍に焼失したが、焼失後蓮誉壽性尼によって再建されたという。叡福寺は「二上山」の山麓に太子と妃と母君皇后が静かに眠る聖地である。
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