2009年3月24日火曜日

一ノ宮巡り 大和の国 大神神社

大和の国一ノ宮
 ”大神神社“
大和国には式内社は二百八十六社、名神大社が百二十八社諸国一の神社を誇る大和の国の一ノ宮が“大神神社”を一ノ宮として知る人は少ない。
三輪さんと言えば「三輪素麺」が有名、大和と隣接する河内地方でも一般的には“三輪の明神さん”で山が神体でしかも“己さん”白蛇で好物の卵を供え祈願、厄除けと、ご利益を庶民の願いを聞いてもらえる。霊験あらたかで、年末から年始の初詣で特に、御神火祭が有名である。
神聖な三輪山は禁足、しかし古代より受け継がれた宮司による鑚(きり)出した神火(忌火)を松明に移し山麓の社十八社を巡り、その神聖な火を参詣者が貰い受け幾万となって火の海となる、その火を持ち帰り元日の灯明の灯に釜戸の一番火とする。
そう言った地域、近隣に深く根付いた民間信仰というのが、私の身近な三輪神社の記憶である。
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居をくぐり三輪さんを拝する、三輪の明神型鳥も有名である。三輪鳥居(三つ鳥居)は重文であり、拝殿(重文)は徳川四代将軍家綱が再建したものである。
明治の官幣大社になるまでは「大神大物主神社」と呼ばれていた。
「記紀」を調べ、神代を推測するときに「天孫降臨」の天孫の発祥の地である大和に地祇の国造りの神“大物主大神””大己貴神“が大和の国一ノ宮の祭神なのかである。
祭神は「大物主大神、大巳貴命」であるが、本殿はない拝殿が向こう側に、背にした三輪山(四百六十七メートル)が御神体である。ここに古代から歴史に秘められた深い意味と謎がある。「日本書紀」に依れば大物主神の国造りの中にこう書かれている。
大物主神はこの国を造ったのは自分だけだと思っていたが、神々しい海を照らし、その中から浮かび上がる神が「お前一人でこの国を創れたのではない、私がいればこそ」と言ったのでその名を聞くと「お前の幸魂、奇魂である。大和国の三諸山に住みたい」と御思召し以後、その御魂(幸魂、奇魂)を三輪山に鎮座した。
ところが宮司といえども立ち入る事のできない禁足の三輪山は古代祭祀の跡の盤座(岩倉)が有る、「奥津盤座」に大物主大神、「中津盤座」に大己貴神、「辺津盤座」に少彦名神が祭られている。
国譲りの神の大物主神は出雲国でと違った形で鎮座し、この大和にも「御魂」に国を譲ったのかは謎を呼ぶ、それは「記紀」ある出雲と違う、大和に国譲りの神話か、この近くに「大和神社」「石上神社」と日本最古の神社があって、名神大社の数ある中で、まほろば大和の国の一ノ宮が”国造りの大物主を祭神とする大神神社である。

2009年3月22日日曜日

弘川寺(西行法師終焉の地)

弘川寺
葛城山を背に大阪平野を見渡せる、急な坂道を中腹に「弘川寺」がある。
寺伝に依れば七世紀の天智天皇の御世に役行者が創建、天武天皇の時代に雨乞いの祈願の業により勅願寺として「龍池山弘川寺」の寺号を賜ったと言う。
 文治四年(1188)座主、空寂が後鳥羽天皇の病を祈願し治癒した功績で「善成寺」の勅額を賜った。その翌年に歌人で僧侶の西行法師が諸国旅しこの弘川寺を訪れ病に伏し亡くなり、西行終焉の地になったが永く西行の事は忘れられていたが江戸の僧侶で歌人で西行を慕って訪れた似雲によって西行の古墳が発見されその山の斜面に西行堂が建立されたと言う。最も有名な辞世の句は 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」と弘川寺は桜にまつわる伝説が多い。弘川寺は二回の大きな戦乱に巻き込まれた。享保
十七年(1732)この辺りは南北朝時代の南朝方の楠木軍の拠点の点在するところ、足利軍が弘川城を攻めた折り南朝方の武将隅屋市正高が破れた末に桜の木の下で自害した。戦国時代河内守護の畠山政長と義就が跡目争いで寛正四年(1463)弘川合戦となって、多くの伽藍、堂塔は悉く焼失したという。
西行縁の“ 弘川寺* 西行法師。佐藤義清、法号円位、大宝房など北面武士、後鳥羽院に寵愛を受け、理由は分からないが二十三歳で突然出家、高野山、伊勢、熊野、吉野、能因を跡を追って陸奥に、五十歳に祟徳院の墓参、弘法大師の遺跡の順礼四国へ、六十九才の折り東大寺再建の重源に巡り会い勧進のため奥州に、途中に頼朝に謁見している。生涯旅をしながら歌を詠み「新古今和歌集」に九十四首に掲載されその生活経験に基ずく清涼さが窺え、家集に「山家集」が残されている。

2009年3月21日土曜日

滝谷不動

滝谷不動
近鉄滝谷不動駅を東に石川を渡り山間にさしかかった所に「滝谷不動」滝谷不動寺がある。新義真言宗三不動、成田新勝寺、根来寺と滝谷不動の三不動一つに数えられ、近郊地域の根強い不動信仰の寺院である。寺伝に拠れば創建は弘法大師と伝えられ本尊の不動明王は楠正成、正季兄弟がこの近くに築いた嶽山城の守護仏と言われ、南北朝の戦乱で畠山軍の嶽山、金胎寺攻めで兵火で焼失後一人の盲目の僧によって再建され、盲僧の眼病が治癒した事でその不動尊の霊験が知られた、不動尊は弘法大師が唐より帰国の折り波間に現れた「波切不動尊」を模して作られたと言う。木造不動明王及び二童子立像(国文)平安時代後期の作と言う。

2009年3月19日木曜日

難波のお彼岸の寺 天王寺(四天王寺)

大阪で「天王寺さん」と宗派を越え親しまれているが聖徳太子縁の寺が四天王寺である。お彼岸、お盆と大阪の老若男女がこぞって代々引き継がれて、お参りするのが「天王寺さん」大阪の季節の風物詩である。
四天王寺 和宗 総本山 本尊救世観世音菩薩 開祖聖徳徳太子
大阪市天王寺区一の十一の十八 JR、地下鉄、天王寺下車十分。
都心にあって交通の便は良い。各霊場札所新西国、近畿三十六不動明王、大阪十三仏、摂津三十三所、摂津八十八カ所、西国四十九薬師。
四天王寺と言えば大阪を代表する寺院で、お盆に、お彼岸に難波っ子は、こぞって「天王寺さん」にお参りをと言って、宗派を超えて風習のように、老若男女がお参りするのが天王寺である。大阪人の心の拠り処が天王寺かも知れな。
天王寺駅から北へ、西門に着く、大きな石の鳥居は七百年余り前に伏見天皇の勅命により造り改めた。鳥居に掛けてある額「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」の十六文字が書かれ筆者は聖徳太子、弘法大師とも言われているが、その横に石柱に「大日本仏法最初四天王寺」記されている。
聖徳太子は仏教導入に物部と戦いに祈願され四天王寺を建立された。その後朝廷や摂関家に加護を受けたが、宗派争いに天台宗の支配を受けたりした、また戦乱で信長の天正の焼き討ちで打撃を受けた、秀吉の加護で再建されたが、冬の陣と火災で、近年は台風と戦災でその都度、復興を市民と信者の手で再建された。天王寺の盛衰を知るに境内を見ればわかる。昭和三十八年に金堂、五重塔、中門回廊、元和再建の本坊、五智光院、六時堂、元三大師堂、石舞台、広い境内の奥にも諸堂が、所狭しと点在し、線香とロウソクの絶え間が無い。
経木流しの亀井堂の所作は独特である。また亀の池は市民の憩いの場でもある。

難波のお彼岸の寺 一心寺

大阪ではお彼岸、盆は老若男女を問わず宗派を越えてお参りする人は受け継がれ、季節の風物詩である。   一心寺 浄土宗別格本山 本尊阿弥陀如来 法然上人二十五霊場七番札所
大阪市天王寺区逢坂二の八の六十九 JR天王寺、地下鉄天王寺駅下車十分
都心にあって、交通の良く大阪の人にとり天王寺と一対に参ることが多い。
天王寺と同じく、お盆、彼岸には天王寺と一緒に御参りをするそんな習わしが何時の時代からか。当たり前になっている。「お骨仏の寺」として宗派を超えて「納骨」をする、一般常識を超えた大阪人の常識である。
大きな伽藍が立ち並ぶが建物は比較的新しいが、古い建物は戦災で焼失した。創建は寿永四年(1185)法然上人が四天王寺の西門に辺りで四間四方の庵を結び「日想観」の修行をしたのが始まりと言う。
現在の境内は、秀吉の夫人高台院から受領したもの、その後大阪夏の陣で主戦場になり三千人の供養の塚を造ったと言う。その後この地に堂塔を建立され供養された。第二次世界大戦で全て焼失したが、戦後の再建で、本堂、念仏堂、日想殿、開山堂と次々建立されていった。その他境内には、本多出雲守の五メートルの「おばけとうろう」に八代目市川団十郎の碑や、竹本隅太夫の墓など大阪の芸能人などの墓五千余りあり、また納骨で造った「阿弥陀仏」は江戸末より始められ、十年に一体造られる。

2009年3月8日日曜日

石切劔箭神社(石切さん)

石切劔箭神社
 石切さんと言えば関西では「でんぼ、腫れ物」の神さんで地域の信仰を集めている。元々この辺りを古代の豪族物部氏の祖神を祭神「饒速日命、可美真手命」神社の劔は物部氏が軍事を司った鋭利な刃物を意味し、物部氏一族を祭る神社に相応しい物とされている、神宝に古墳時代の遺物、三角縁唐草文帯二神二獣鏡や環頭太刀柄頭などがある。境内の北側に法通寺跡があって、物部氏の一族の穂積氏の氏寺と発掘で考えられる。
* 石切さんと言って関西一円お参りの人の絶え間がない、デンボ腫れ物、物貰いと効き目ご利益で百度参りの人並みは真剣そのもので思わずカメラを撮るのも躊躇う。庶民の身近な神さん、願掛けの石切さんである。この石切神社はこの地で生まれこの神社で宮参りをしたことを親から聞いた縁深い石切神社です。写真はふと訪れてみたくなって懐かしく思える一日でした。

2009年3月4日水曜日

神仏霊場巡り  朝護孫子寺

神仏霊場   朝護孫子寺
 信貴山と言えば「信貴山縁起絵巻」本尊は武運の守護神で、厄除け開運成就の「毘沙門天」で関西ではお馴染みの信貴山寺は「朝護孫子寺」正式寺院名である。信貴生駒連邦の南の端に舞台造りの本堂他山内塔頭と多くの堂塔が点在している。 創建は聖徳太子が物部氏と戦いの折りにこの寺の本尊毘沙門天に勝利を祈願したのが始まりと言う。勝利した太子は山号を「信じるべき貴ぶべき山」として命名、寺号は延喜年間に中興の祖と仰がれる命運が「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」願ったことに由来する。また南北朝の時にはこの寺に祈願して生まれた子だと言う楠正成は、毘沙門天の別名多聞天にあやかり多門丸と呼ばれていたと言う。天正七年に寺の上の方に築かれた信貴山城を築いた松永久秀が織田信長に攻められて自害しその時も戦渦に巻き込まれて多くの伽藍、堂塔が焼失をした、その後豊臣秀頼によって再建された。
* 信貴山縁起絵巻。国宝で漫画風の三巻で物語をリアル画いた巻物。
“飛倉ノ巻“は平安年間に信貴山で毘沙門天を祀り、中興の祖命蓮の不思議な法力で”倉を乗せた鉢が飛び上る物語を描いた絵巻。
第二巻は”延喜加持ノ巻”醍醐天皇の病を治す為に高僧の祈祷を受けるが改善せず、信貴山の命蓮に白羽の矢が当たり、京都に赴く事を断りこの地で祈祷を伝える。法力により都の天皇の病を治癒する物語。
第三巻”尼公ノ巻“命蓮と姉の尼公との再開の物語で、信州から大仏殿のぬかずく尼公の姿があって西へ向かって信貴山で再開、生涯この地で暮らす物語である。

2009年3月3日火曜日

神仏霊場  大念仏寺

神仏霊場 大念仏寺
 平野の大念仏「万部おねり」で大阪、河内一円では五月一日より始まる行事は風物詩である。「日本最初の念仏道場 融通念仏宗総本山 大源山大念仏寺」
本尊は画像十一尊天得如来である。本堂は府内随一の木造建築物である。また日本十三宗の一つで浄土宗の先駆けと言って良い、平安時代末期、良忍(一〇七二~一一三二)が開宗した。一二歳で比叡山に登り出家、天台密教を学び、その後山を折り大原で修行し阿弥陀三昧、念仏を求め、四十六歳で阿弥陀から融通念仏の悟りを感得し、「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、十界一念、融通念仏、億百億万遍、功徳円満」の悟りは多くの公家から庶民に至るまで受け入れられて広まっていった。 その後鳥羽上皇の加護受けたが盛衰を繰り返し、良尊が再興したが衰退、元亨元年(一三二一)中興の祖法明によって再建するが再び戦火で焼失、元禄三年に大通が復興したという。年に一回幽霊博物館や広い堂内で数珠回しなどの行事がある。