2011年10月13日木曜日

浪速今昔百景 大坂城の盛衰


浪花今昔百景(百)大阪城の盛衰
天下の名城大阪城は豊臣秀吉によって天正11年(1583)から15年の歳月を掛けて築城された。その前身は信長と一向宗の門徒衆との「石山合戦」の11年にも及ぶ戦場の舞台であった。それは本願寺8世蓮如が「摂津東成生玉内大坂」に隠居所に坊舎を立てた事に始る。その後山科本願寺が法華信徒に焼き討ちをされ、10世証如が大坂の坊舎を本山として大きな伽藍を中心に要塞化し石山本願寺ができた。大阪城二の丸に「蓮如上人袈裟懸けの松」の伝承地がある。11世顕如は天下一を目指す信長と対立し11年間の戦いの後、和議がなされたが一向宗の敗退と成った。信長が本能寺で没した後、秀吉の手で昼夜を問わず3万~5万人の労力で「三国無双の城」大坂城が築城された。秀吉の死後、関が原の合戦で敗退し、大坂冬の陣、夏の陣でついに豊臣家は没落し滅亡した。大坂城落城後は家康の孫の松平忠明に復興を命じ、大坂城を幕府直轄領とした。藤堂高虎を普請総奉行と任じ、外様大名64家動員させて再建に取り組んだ。豊臣時代の城壁を地中に埋めて、十年間かかり改めて造り直させた。江戸幕府によって再建された大坂城も40年も経たないうちに落雷で焼失した。その後紀州徳川家が大坂城本丸千畳敷と言う謁見の御殿が幕末に焼失した。明治の廃城命令によって廃城となった和歌山城の二の丸御殿を解体し大坂城内に移築し「紀州御殿」と言われた。現在の大阪城は昭和御大典事業として大阪市が「大坂夏の陣図屏風絵」を参考に市民の寄付によって再建された。大坂城内は軍事施設で一般のものは入城できなかったが、幕末動乱や第二次世界大戦で被害を受け多くを失ったが、大手門、多門櫓、乾櫓、一番櫓などが残っている。城内にあった「紀州御殿」が米軍の接取後、失火によって失った。尚本丸南側に在る「豊国神社」は1960年に中之島から移築され「豊臣秀吉、秀頼、秀長」を祀っている。

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