2009年9月20日日曜日

神仏霊場巡り  教王護国寺〔東寺)





神仏霊場巡り  教王護国寺〔東寺〕
古儀真言宗東寺派の本山である、京都は表玄関として西寺と共に羅生門ンの東西に建立された寺院で正式には経王護国寺、「弘法さん」で親しまれ、嵯峨天皇から賜ったと言われ、毎月21日の境内で空海の縁日には「弘法市」が賑わいを見せ発弘法、終弘法には20万人あまりが訪れる。世界遺産に登録、京都の象徴的な五重塔に金堂、大師堂、不動明王、帝釈天、梵天の国宝に、多くの重文など国宝25件、重文52件正しく文化財の宝庫である。空海の根本教義である「真言密教の道場」として真言密教は「東密」として平安仏教の真言宗の代表的役割を果たし。空海の没後は仁和寺、醍醐寺と引き継がれたが、一時衰退、源頼朝の勧進で再建、またその後、後白河天皇の皇女宣陽門院によって拡充された。南北朝の折りには足利尊氏が陣を引き文化財が焼失、一揆にも被害を受けたが、織田信長や豊臣秀吉によって再建されて今日に至っている。

2009年9月19日土曜日

浪速の歳時記”彼岸・盆は天王寺さん一心寺さん”










”浪速の歳時記“お彼岸は天王寺さん一心寺さん

盆、彼岸は昔ながらに、宗派を越え天王寺界隈は人の波で賑わいを見せる。JR天王寺駅から一心寺か四天王寺まで露店が軒を連ね、経木札の机に筆と墨それぞれに無くなった人の戒名、俗名を書き北、南の引導鐘で回向する。その経木札を亀井堂に持っていき四角い石の地下の亀の口から流れるに聖水に流す、「経木流しである」そして六時堂にお参り、前の亀の池は落語にも出てくる「天王寺の亀の池」である。境内の露店との人情通う会話を交わしながら一心寺へと「お骨の仏様」で知られた浄土宗は法然縁の寺であるが宗派を越え善男善女の参りと、無くなった人の納骨で作られた「阿弥陀仏」が本堂の横のお堂に人が群がり亡き人を偲ぶ、生きているが如くの遺された肉親のお骨を前で成仏を願い再開を噛み締める。語り見つめ年月の流れを知って来世を信じ供養する。これが浪速の盆、彼岸の捉え、接し方なのである。天王寺さん、一心寺さんと親しみこめ今年も彼岸でお参りの人の波の絶えることがない。

2009年9月15日火曜日

京都古刹探訪  万福寺




万福寺

JR黄檗駅より東に万福寺がある。江戸時代に中国は福建省より渡来した禅僧が隠元禅師であった。後水尾天皇、将軍徳川家綱の加護って、一六六一年に開創された禅宗に寺院である。日本三禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)の一つある。

隠元禅師は日本の禅宗興福寺の僧らに請われ、九州の興福寺・祟福寺に入り、その後摂津の普門寺に移り、後水尾天皇の別邸の宇治に広大な土地を与えられた。徳川将軍の家綱や大老の酒井忠勝など、長崎に豪商に寄進を受け、堂塔伽藍を建立した。重厚な総門、山門、天王殿、大雄宝殿、法殿、祖師堂と多くの伽藍の配置は見事に回廊に荘厳さに調和されていて、唐様式ならではの禅宗の寺院である。庭園や堂内の装飾の仏画などは貴重な文化財の宝庫となっている。

2009年9月13日日曜日

神仏霊場巡り   醍醐寺




神仏霊場巡り   醍醐寺

場巡り   醍醐寺

西国観音霊場札所、近畿三十六不動札所、西国四十九薬師札所、神仏霊場、真言宗十八本山札所と「世界文化遺産」と京都では屈指の文化財、寺宝の寺こそ、真言宗醍醐派総本山、醍醐寺である。創建は理源大師(聖宝)である。貞観十六年(874)にこの地の霊山、笠取山に登った折に老翁の姿で現われた地主神横尾明神のこの山を譲り受け、如意輪、准胝観音菩薩を刻み祀ったのが始まりと言う。その後、醍醐、朱雀、村上天皇の加護により上醍醐、下醍醐に多くの堂塔が建立された。その後応仁の乱で、五重塔を残して多くの堂塔は焼失した。その後、あの有名な「醍醐の花見」で天下人の秀吉によって金堂、三宝院、開山堂など再建された。その後江戸時代に幕府より修験宗当山派の本山として隆盛を極めたが、明治の神仏分離令で打撃を受けたが、余余に復元され往時の堂塔に回復し現在に至っている。

2009年9月6日日曜日

神仏霊場巡り   叡福寺

太子の里は竹内街道沿いにあって、河内飛鳥として河内から大和に抜ける街道沿いには飛鳥、奈良時代の遺跡など多く点在し小高い丘陵地帯である。古来「竹内街道」は飛鳥、難波へと結ぶ重要な官道であった、推古陵古墳、用明陵古墳、敏達陵古墳、小野妹子の墓、孝徳陵古墳、そして聖徳太子廟など、特に太子の関わる遺跡が点在する“近つ飛鳥”と言われる古代の重要な拠点でもあった。太子町の地名にあるように「聖徳太子」縁の地である。「法隆寺」「四天王寺」「叡福寺」と太子信仰の中心をなす寺院で「叡福寺」は何れの宗派に所属しない珍しい寺院である。単一寺院として宗派を越えたお参りや、宗派間では特別な寺格を有している。

聖徳太子は生前この場所を墓所と定め、太子妃も母穴穂部間人皇后も陵墓に葬られ、太子没後に伯母の推古天皇が墓守を置かれ、その前に「香華寺」が建立されたのが始まりという。その後聖武天皇の発願で東院、西院の伽藍を配した「叡福寺」が建立されたという。

大和、河内の国境と難波への重要拠点で、大阪平野を見渡せる眺望と何時訪れても静寂と風格ある堂塔と、山を背に聖徳太子御廟がる。

太子縁の寺として歴代天皇、権力者参拝や平重盛も堂塔を修理の寄進をしている。日本仏教導入の祖としての墓所には、空海、親鸞、日蓮など仏教の開祖と言われる高僧の参篭の記録がある。この寺も時代の中で盛衰を重ね戦国時代信長によって焼失、豊臣秀頼によって再建された。多宝塔と聖霊殿は重文、金堂は江戸時代に建立、本尊の聖如意輪観音菩薩は鎌倉時代の作である。

叡福寺へは幾度もなく訪れているが、静寂と風雪に耐えた寺院のたたずまいと宗派色の少ない寺院と気付くが、時代の変動の中、奈良時代に聖武天皇の勅願によって東西二院形式の七伽藍の堂塔を建立し栄えた叡福寺は、戦国時代織田信長によって焼失し、豊臣秀頼によって叡福寺が再建された。

古びた重厚な、多宝塔(国重文)金堂は江戸時代に本尊の聖如意林観音像は鎌倉時代の作で、境内の奥まったところに聖霊殿(太子堂)一目見て墳墓の前の霊殿と分かり本尊が聖徳太子像(国重文)、また聖徳太子廟とされる墳墓は磯長(しなが)谷北側の斜面の地形を利用して築かれ円墳である。

叡福寺の向かいの道一つ隔て南側に長い石段の上に寺院が「西方院」であるが、寺伝に拠れば太子の乳母三人が太子の冥福を祈るために出家し太子廟の前にお堂を建立したのが始まりだと言う。

三人の乳母とは蘇我馬子の娘月益姫、小野妹子の娘日益姫、物部守屋の娘善照姫の三人の美姫の出家で三尼公と言われた。

当初叡福寺の塔頭の一つだったが叡福寺と同じく戦禍に焼失したが、焼失後蓮誉壽性尼によって再建されたという。叡福寺は「二上山」の山麓に太子と妃と母君皇后が静かに眠る聖地である。

2009年9月1日火曜日

神仏霊場巡り    松尾大社



神仏霊場巡り 松尾大社

桂川を前に「延喜式」に名神大社として二十二社の四番目に列せられ、古来この地に住んでいた豪族が松尾山の神霊を祭神として祭っていたのを移住してきた渡来人の「秦氏」が一族の総氏神として仰ぎ開拓した。秦忌寸都理が社殿を創建し、平安時代以降は賀茂両社と並び皇城鎮護の社とされた。歴代天皇の行幸も十度にも及んだ。境内の「亀の井」より湧き出る霊泉を持って酒を造ると腐らないと言われ、酒造家からは醸造祖神と信仰され、境内を横切るように流れる清流の一ノ井川岸は山吹の花に埋め尽くされる。総門、本殿、諸殿の見事な両流れ造りで、千木、鰹木を置かず唐破風形をして優美な「松尾造り」と言われ「松尾祭」には壮麗、勇壮な祭りで松尾七社の神輿が拝殿回しのあと、桂川を船で渡るという。