2009年10月31日土曜日

神仏霊場巡り長田神社






神仏霊場巡り  長田神社
神功皇后が創始したと伝えられている、廣田神社、生田神社と並び神功皇后が神占で事代主神「吾をば御心の長田の国に祀れ。鶏鳴の聞こゆる里は、吾が有縁の地なり」と言うお告げで長田川の中央を流れる中州に建てられた。以後鶏の鳴く地に鎮座されたので、鶏は神の使いとされ氏子は代々鶏を食べなかったと言う。以来皇室の崇敬深く、武門の崇敬も集めている。またこの神社に伝わる追儀式の神事は七名による鬼役による、松明を振りかざす厄払いの神事は兵庫県重要無形民俗指定になっている。

2009年10月26日月曜日

ひこいちの江戸〔東京〕歴史探訪










ひこいちの江戸〔東京〕歴史探訪記
十月二十三日~二十四日かけて在野史、郷土史の趣味の仲間が集まって、東京に本部をおく「歴史研究会」主催の第二十五回首都圏大会が挙行され大阪で活動する(ひこいち)ニックネームの私は歴史愛好家は一泊二日の江戸(東京)探訪記に出かけた。このレポートはその時の記録である。
前回は出雲島根大会、その前は信州長野大会、その前は近江滋賀大会と全国の仲間と合い土地柄、風土、地域の歴史文化に触れるのが楽しみである。
大会の様子は割愛するが、江戸歴史探訪記として三箇所を写真、レポートすることにした。大会の二日目のスケジュールはバスで江戸東京博物館である、続いて増上寺で(経蔵・本堂・霊廟)でうち本堂以外は一般公開されて要らず必見であるが経蔵は雨天のために中止、霊廟のみ野拝観。続いて浅草、浅草寺で時間の都合上一般公開されていない「伝法院」の庭園のみである。もう一つは私の個人的探訪で時間があれば品川のホテルの待ち時間の間に訪れてみたかった「泉岳寺」である。日本国で国宝,重要文化財は関西の京都や奈良と思いがちであるが、都道府県の中で実は東京都が一位で2082件、二位京都府で2049件である、三位奈良県、四位が滋賀県、五位が大阪府である。
前段この位で数ある文化財の中で、たまたま企画された増上寺と浅草寺は仏教史好きの私に巡り合せた運命のようなもの、浄土宗本山知恩院は一年に何度か訪れる寺院である。宗祖法然上人の関東の大拠点である。しかも徳川家の菩提寺で徳川家康の江戸入府と共に宗勢を拡大し三千人の僧侶が修行する一大道場であった。一方天海の影響で勢力を広めた天台宗とは、その覇権を巡り凌ぎを削ったと見られる。将軍墓所としても二代秀忠,六代家宣、七代家継、九代家重,十二代家慶と六代づつ墓所があって、上野寛永寺と二分するもので徳川家への絶大なる信頼が窺える。
浅草は浅草寺は東京随一の観光名所である。本堂(観音堂)五重塔、仲見世、雷門、二天門、宝蔵門など数ある中で一般公開されていない、大都会の中に唯一静寂を味合えるのが「伝法院」である、浅草寺の本坊であるが何より「小堀遠州」の庭園ある。それは初心を見てもらった方が納得頂けるのではないかと思う。もう一見の寺院は品川「泉岳寺」で個人的に訪問したい寺院で二十八年前に両親、子供と夫婦の六人家族で父の東京巡りの希望で三つ「靖国神社、皇居、泉岳寺」の大正二年生まれの軍人だった父の望みだった。その泉岳寺を訪れた二十八年前も今も余り変わっては居なかった。忠臣蔵は忠孝の精神は戦前の日本人の支えた精神文化でもあった。曹洞宗の江戸三カ寺の一寺、元禄時代に主君の仇を打つべく本懐を遂げて、主君の墓前に報告の為に泉岳寺に、「忠臣蔵」として赤穂浪士は浅野内匠頭に報告する物語は時代を越えて日本人の心情を揺さ振るものである。河内生まれの私の、この度の一端の訪問は平成江戸見聞録とでもいうか、小さな江戸再発見、再考と言えると思う。

2009年10月14日水曜日

神仏霊場巡り妙法院





“妙法院”
京都は東大路に面し妙法院はあの有名な蓮華王院の三十三間堂とは一体である事知られていない。本尊は普賢菩薩、天台宗は問跡の寺院である。開山は天台宗座主快修が住持した比叡山は西塔の本覚院に始まり、後白河天皇が東山は阿弥陀ケ峰に法住寺を造営に熊の本宮と比叡山の鎮守日吉社のご神体を勧請して創建したそうである。その後皇室の後醍醐天皇の皇子尊澄法親王が門主となり、天台座主なられ「妙法院、青蓮院、三千院」の宮問跡寺院である。その後応仁の乱で焼失し、豊臣秀吉が方広寺の造営と共に妙法院を再建、徳川家康にも加護を受け方広寺、蓮華王院、新日吉社を管轄を決めた。

2009年10月13日火曜日

神仏霊場巡り智積院





泉涌寺
京都は東山三十六峰の南に端、皇室縁の寺で真言宗泉湧寺は天長年間弘法大師が庵を結んで法輪寺と号したのが始まりと言う。建暦元年〔1218〕唐から帰国した俊芿が入寺し泉湧寺と改めた。鳥羽天皇の加護帰依があって、大伽藍が建立されて勅願寺となった。四条天皇が亡くなって御陵が造営されてからは天皇家の菩提寺になり「香華院」となった。現在四条天皇から桃園天皇までの月輪陵と、光格天皇、仁孝天皇の後月輪陵、孝明天皇の月輪東陵がある。応仁の乱で焼失し織田信長が再建、その後には後水尾天皇が今の伽藍を建立し再建された。

2009年10月12日月曜日

京都の古刹泉涌寺




泉涌寺
京都は東山三十六峰の南に端、皇室縁の寺で真言宗泉湧寺は天長年間弘法大師が庵を結んで法輪寺と号したのが始まりと言う。建暦元年〔1218〕唐から帰国した俊芿が入寺し泉湧寺と改めた。鳥羽天皇の加護帰依があって、大伽藍が建立されて勅願寺となった。四条天皇が亡くなって御陵が造営されてからは天皇家の菩提寺になり「香華院」となった。現在四条天皇から桃園天皇までの月輪陵と、光格天皇、仁孝天皇の後月輪陵、孝明天皇の月輪東陵がある。応仁の乱で焼失し織田信長が再建、その後には後水尾天皇が今の伽藍を建立し再建された。

2009年10月11日日曜日

神仏霊場巡り      今熊野観音寺




今熊観音寺〔観音寺〕
西国観音霊場十五番札所、通称「今熊野観音寺」で京都は東山三十六峰の南にあって真言宗泉涌寺の塔頭にある。開山は弘法大師が天長年間に熊野権現の化身に会い、嵯峨天皇の御願によって開山と伝わる。その後藤原緒嗣が伽藍を建立したことから始まる。藤原北家の祖の宇合の子の百川の長男で桓武天皇に重用され右大臣、左大臣と昇進した。その後、後白河天皇が深く帰依し、この地にあった法性寺殿にあった所に、熊野権現に勧請して清盛に命じて、今熊野神社の本地仏として祀られた。本尊は十一面観音菩薩像は弘法大師作と伝わる秘仏で栄えたが、戦火で焼失し再建し泉涌寺の塔頭となった。