2011年8月10日水曜日

河内古社寺探訪


河内古寺社探訪   大林寺から布忍神社

2009-09-24 05:58:32 | 日記
大林寺と布忍神社
河内松原市は近鉄布忍駅より少し西に、西徐川を挟んで大林寺と布忍神社がある。
府道は堺大和高田線は古代には長岡街道と重要な古道幹線であった。大林寺の前の寺院永源寺は元々、川の西側の布忍神社辺りにあって布忍神社は鎮守として、また奄美地区の祭神阿麻許曾神社から白布を敷いて迎えたそうである。大林寺が融通念仏宗として再建された折りに永源寺跡から平安時代の発掘された瓦などを使用し永源寺を復元された。平安時代の十一面観音菩薩(国宝級)、不動明王などの寺宝を大林寺に安置された。


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河内古寺社探訪   来迎寺NO74

2009-09-23 11:53:14 | 日記
来迎寺
河内松原は丹南、中央環状線の南側に大きな伽藍の寺は来迎寺、融通念仏宗は中本山で江戸時代以降、河内は丹北、丹南、摂津東成、西成、百済、住吉の36カ寺まとめた。飛鳥からの集落丹南遺跡の中にあって、寺伝よれば行基が狭山池を造成のときの死者を供養するために毘沙門天を祀ったのが始まりという。その後天承年間に融通念佛宗の祖の良忍上人が創建し当初は阿弥陀院と称した、良忍上人の教えは河内中に広まったが、その後大坂夏の陣で焼失し、衰退したのを源通によって再建されて、夏に陣で功績を上げた徳川氏の旗本一万石の高木氏菩提寺になった。丹南藩主高木主水正陣屋敷跡がある。



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河内古寺社探訪   玄清寺 NO72

2009-09-10 06:09:50 | 日記




玄清寺
浄土宗玄清寺の山門に「東向き観音」に石碑がある。はいって本堂に左手に観音堂がある。額田村の豪族高内正次氏が僧聖誉を招き開いた、正次氏が浄翁玄清居士と称したので「玄清寺」と寺号と称した、享保年間に高内氏一族が本堂を建立、伝説に河内の国に東向き観音堂に観音像は厨子の中に安置され扉が開けられることもなく、ある夜に大工の夢枕にたたれ「観音像」を伴って諸国を廻る事を告げられた。住職の許しを得て諸国を廻って、多くの人々を救い多くの奇跡で災難が免れたと言う。


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河内歴史探訪   額田寺NO71

2009-09-09 05:57:56 | 日記



額田寺
額田寺は生駒山麓の近鉄額田駅から下手に坂を下った所に有って、河内西国法印の寺である。額田の豪族高内重行の祖先に記述における「ぬかた縁起」に額田寺は弘法大師が京都、高野、難波の行き返りの止宿のためにこの地に一寺をいとなんだ」との記述があり弘法大師の宿所として額田寺を建立されたと記されている。弘法大師自ら本尊薬師如来を刻み安置したという、その後、広大な寺域を持つ寺院だった。明治に入り、慈雲尊者の縁の、不動寺が廃寺となったので本尊不動明王がこの寺に移されたが、昭和十四年に失火し焼失した。近年鉄筋のお堂に建て替えられ、弘法大師の教えの法灯守り続けれている。
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    河内古社寺探訪


    河内古寺社探訪  観音寺

    2009-10-01 05:43:29 | 日記



    観音寺
    河内西国二十七番札所として石切神社の下手に融通念仏宗、観音寺がある。この辺りはこの地の豪族の水走氏があったところ、戦後はレンコン畑に田園風景だったが近年高速道路に工場地帯の中に観音寺がある。歴史は古く聖徳太子縁の寺、焼失し無住持が続いたが、開祖元興上人の墓と思われる石塔、元興上人の一刀彫と伝えられる千手観音菩薩、本尊の阿弥陀如来など安置されている、近年本堂は建て替えられて新しいが伝統は伝えられてる。


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    河内浪速古社寺探訪   菩提寺

    2009-09-30 05:57:07 | 日記



    菩提寺
    河内西国二十九番札所、融通念仏宗の寺は、ひなびた古風たたずまい、善根寺功徳と言われ門を潜るともみじが境内を覆う、善根村の地名の元なった善根寺は聖徳太子が祈願したと言う。本堂は三百年前に建てられたもので歴史的建物で本尊脇待の小さな観音菩薩は香木伽羅で彫られた十一面観音菩薩である。


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    河内古社寺探訪  観音禅寺NO90

    2009-09-29 06:07:11 | 日記




    神宮禅寺
    河内西国第十八番札所として信貴山は服部川、門前に大きな楠木、臨済宗は妙心寺の末寺の寺、寺と言っても大きな堂塔はなく、その由来にある、その昔土地の豊門長者の信頼厚い、直宗和尚が丹波の守を開基として、豊門長者屋敷跡に創建したのが始まりと言う。開山直宗和尚が亡くなって三百年にこの寺の本尊の聖観音菩薩。門前にはこの長者屋敷に出入りする人々の馬が洗ったと言う池「馬洗い池」があり、石橋の渡ったところに稲荷社がある。
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    河内古社寺探訪 常楽寺NO89

    2009-09-28 06:14:13 | 日記
    常楽寺
    河内西国二十五番札所として、信貴山は郡川、融通念仏宗の新大和川の付け替えの出来る前、大和川の支流、郡川の里辺に川辺観音と近隣に崇拝されていたそうで、十一面観音菩薩が本尊の阿弥陀如来の前立ちとして安置されていた。そのご南北朝の時に念佛聖の道場として、江戸時代には、秀伝和尚の時に融通念仏宗になり今日に至っている。







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    河内古寺社探訪  法蔵寺NO88

    2009-09-27 06:44:05 | 日記
    法蔵寺
    信貴山に向かう山道に法蔵寺があって、眺望の良いところで堂々とした本堂に聖観音菩薩が安置、創建は土佐の長曾我部氏の子孫の好山和尚に曹洞宗の寺として開山、この地は古来、聖徳太子の縁の深い地で物部氏との戦いの折り砦の在った陣屋跡の場所と言われ、古墳の多いところで、また聖水の湧き出る所で龍神由来の神霊泉の伝説もある。重厚な本堂の天井には狩野得水による、龍の天上が見事に描かれている、襖などにも随所に描かれている。





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    河内古寺社探訪   光明寺NO77

    2009-09-26 16:23:26 | 日記
    光明時
    河内西国客番寺として、信貴山へのケーブルの麓にあって、中河内は中高安小学校の発祥の地となっていたところ、この辺りは融通念佛宗の多い所にあって、訪れた折りには真新しく本堂は建て替えられて落慶法要もまだで、境内の整備もこれからと言った所だった。忙しいところ快く朱印を押してもらいこの寺の本尊脇に安置されている十一面観音菩薩を御参りした。光明寺は元禄四年に秀山が中興祖他と伝えられ、融通念仏宗の開祖良人の教え光明遍照から付けた名前である。この境内から見下ろした河内平野の眺望は一見に値する。




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    河内古寺社探訪  法雲寺

    2009-09-25 05:52:18 | 日記

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    河内古寺社探訪  法雲寺

    2009-09-25 05:50:59 | 日記
    法雲寺
    美原町の田園風景の中に広大な寺域を持ちこの辺りでは最も大きく多くの伽藍を有する寺で禅宗は唐風の黄檗宗は法雲寺である。寺伝によれば法雲寺の前は弘法大師が創建の真言宗の大寺院であったが丹南地域の西除川の氾濫で流されて寺院は流失した。曹洞宗の僧宗月によって霊夢によって観音菩薩が掘り出されて、草庵を結びその後宗月は慧極禅師に住持を委ねた。境内は唐風の山門、天王殿に布袋さんであるが説明には弥勒菩薩と明記してある。本堂には本尊の三千三百三十三体の仏像回廊があって右手に開山堂と庭園をあわせ禅寺ならではの伽藍位置になっている。堂々たる禅寺である。



    河内古社寺探訪


    内古社寺探訪   叡福寺 NO66

    2009-09-05 12:28:28 | 日記
     


     

    太子の里は竹内街道沿いにあって、河内飛鳥として河内から大和に抜ける街道沿いには飛鳥、奈良時代の遺跡など多く点在し小高い丘陵地帯である。古来「竹内街道」は飛鳥、難波へと結ぶ重要な官道であった、推古陵古墳、用明陵古墳、敏達陵古墳、小野妹子の墓、孝徳陵古墳、そして聖徳太子廟など、特に太子の関わる遺跡が点在する“近つ飛鳥”と言われる古代の重要な拠点でもあった。太子町の地名にあるように「聖徳太子」縁の地である。「法隆寺」「四天王寺」「叡福寺」と太子信仰の中心をなす寺院で「叡福寺」は何れの宗派に所属しない珍しい寺院である。単一寺院として宗派を越えたお参りや、宗派間では特別な寺格を有している。
    聖徳太子は生前この場所を墓所と定め、太子妃も母穴穂部間人皇后も陵墓に葬られ、太子没後に伯母の推古天皇が墓守を置かれ、その前に「香華寺」が建立されたのが始まりという。その後聖武天皇の発願で東院、西院の伽藍を配した「叡福寺」が建立されたという。
    大和、河内の国境と難波への重要拠点で、大阪平野を見渡せる眺望と何時訪れても静寂と風格ある堂塔と、山を背に聖徳太子御廟がる。
    太子縁の寺として歴代天皇、権力者参拝や平重盛も堂塔を修理の寄進をしている。日本仏教導入の祖としての墓所には、空海、親鸞、日蓮など仏教の開祖と言われる高僧の参篭の記録がある。この寺も時代の中で盛衰を重ね戦国時代信長によって焼失、豊臣秀頼によって再建された。多宝塔と聖霊殿は重文、金堂は江戸時代に建立、本尊の聖如意輪観音菩薩は鎌倉時代の作である。
    叡福寺へは幾度もなく訪れているが、静寂と風雪に耐えた寺院のたたずまいと宗派色の少ない寺院と気付くが、時代の変動の中、奈良時代に聖武天皇の勅願によって東西二院形式の七伽藍の堂塔を建立し栄えた叡福寺は、戦国時代織田信長によって焼失し、豊臣秀頼によって叡福寺が再建された。
    古びた重厚な、多宝塔(国重文)金堂は江戸時代に本尊の聖如意林観音像は鎌倉時代の作で、境内の奥まったところに聖霊殿(太子堂)一目見て墳墓の前の霊殿と分かり本尊が聖徳太子像(国重文)、また聖徳太子廟とされる墳墓は磯長(しなが)谷北側の斜面の地形を利用して築かれ円墳である。
    叡福寺の向かいの道一つ隔て南側に長い石段の上に寺院が「西方院」であるが、寺伝に拠れば太子の乳母三人が太子の冥福を祈るために出家し太子廟の前にお堂を建立したのが始まりだと言う。
    三人の乳母とは蘇我馬子の娘月益姫、小野妹子の娘日益姫、物部守屋の娘善照姫の三人の美姫の出家で三尼公と言われた。
    当初叡福寺の塔頭の一つだったが叡福寺と同じく戦禍に焼失したが、焼失後蓮誉壽性尼によって再建されたという。叡福寺は「二上山」の山麓に太子と妃と母君皇后が静かに眠る聖地である。

    河内古社寺探訪


    河内古寺社探訪    慈眼寺 (野崎観音)NO73

    2009-09-11 06:00:18 | 日記




    野崎観音 福聚山 「慈眼寺」曹洞宗 本尊十一観世音菩薩。(10)
    JR 学研都市線野崎駅下車徒歩十分。大阪平野を見下ろす眺望の良い場所にある。国道一七〇号「東高野街道」を横切り急斜面の石階段と坂を上ればその眺めは大阪平野を眺望は絶景である。
    寺伝によれば、今から千三百年余り前。行基が開山、元は摂津江口に有った寺を(江口の君)長者が摂津から平安時代にこの地に移したという。その後信長の松永秀久攻めで焼失、曹洞宗の禅僧青厳が再建した。
    元禄時代に平野屋五兵衛が本堂を寄進、この頃より野崎参りが盛んになり大阪を一望のできる屈指の眺望は古くより、大阪庶民の信仰を集め、特に大阪の豪商、大店、旦那衆から、商人、庶民までこぞって野崎き詣でをした。
    野崎の観音さん、江戸時代より広く親しまれ、商人の町浪速っ子は共のものや、芸者を引き連れ賑やかに「野崎参り」したのは有名である。
    近松門左衛門(女殺油地獄)に出てきて「なまず川よりゆらゆらと野崎参り」とあり、船での野崎参りが大阪の風物詩となっていた。
    何より“野崎参り”を一躍有名にさせたのが東海林太郎の歌謡曲にある「野崎小唄」(野崎参りは・・・屋形船で参ろか・)が大流行いち早く野崎観音を全国的に有名にさせた。
    また落語の「野崎参り」は当時の情景を如実に後世に伝えた意味は大きい、船で行く人、歩く人の「掛け合い」で話が進むやがては、野崎に到着、そして観音参り、浪速っ子に人気の観音さんは本尊「十一面観音菩薩」は木造で秘仏平安初期作と言われている。
    大阪から寺の下まで川が流れていたので、船の往来が盛んだった。
    もともとこの当たりは寝屋川と深野池、などの湿地帯を大和川お付け替えにより、それを新田開発と、同時に堂島川から観音井路が通じその運河に利用し船の往来が活発であった。
    昨今、戦後には大きな裁判訴訟にもなった大東市の寝屋川浸水被害の問題となった古くより治水が悪く、大雨や台風で洪水、氾濫繰り返していたがその分水利として、野崎の観音辺りまで船で行けた。
    大阪は船場辺りから商人は野崎観音に願掛け、厄除け、商売繁盛に川沿いの土手堤を通り野咲き参りして、片やや淀川伝いに館船で野崎観音参りに繰り出す者がいて大いに賑わったそうである。
    落語に出てくる登場人物は土手伝いに野崎を目指す人と、優雅に屋形船に芸者など乗せ物見胡散に行く者の掛け合いであり、枚方にある淀川の五十石船の“くらわんか船”の掛け合いに似ている。
    当時は気さくに、誰かれとなく気をかけ、まさしく“旅は道ずれ世は情け”の気風があったのであろう。
    大塩平八郎の乱では茨田群士の仲間をかくまった事もあると言う、歴史も持っている。
    近松半二の歌舞伎の「お染久松」舞台荷もなり、その塚が残っている。
    文楽、落語、歌謡と大阪庶民に取って馴染みの深い観音さんである。 
    歌舞伎に出てくる銘台詞の“観音さまを、かこつけて、逢いに北やら南やら”、お染は思い久松の、あとを慕う手代の久松との悲しい恋物語は、この野崎を舞台にして繰り広げられた。
    「野崎観音」は商人と庶民の安らぎの、気さくにお参りの出来る、願い聞き届けてくれる観音さんだったようである。 

    古社寺探訪


    内古社寺探訪円通寺

    2010-03-02 07:10:43 | 日記
    河内西国霊場の札所で融通念仏宗で本尊十一面観音は聖徳太子作と伝えられ物部氏追討の後に刻まれていた観音菩薩は四天王寺に安置、その後霊夢に観音菩薩が現れてこの寺にこられたという。
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    河内古社寺探訪観音禪寺

    2010-03-01 06:50:23 | 日記
    東大阪は稲田に河内西国霊場札所の観音禪寺がある。臨済宗妙心寺の僧が建立した、大伽藍の大寺は兵火に衰退してまったが大松の根元より聖観音が出土し御堂を設け三木城主の加護で再建、石平和尚が開基とした。
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    河内古社寺探訪萱振御坊恵光寺

    2010-02-28 11:07:27 | 日記




    浄土真宗の蓮如の六男蓮淳を開基として寺内町が作られ萱振御坊恵光寺中心に形成された、石山合戦に巻き込まれこの辺りは焼け野原になったと言う、大和川の付け替え後寺内町を中心に新田開発が行われ勢力が拡大していった。
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    摂津古社寺探訪記平林寺

    2010-02-22 07:06:49 | 日記
    摂津88カ寺、摂津西国霊場の平林寺本尊は釈迦如来である。宝塚は武庫川渡り今津線のガードをくぐった山手にある。寺の周りには寺社が多く中でもこの寺が古風なたたずまないから古が分かる、記述によれば聖徳太子が摂津国七大寺を建立、その一寺がこの寺で、空海が入寺、戦国時代に消失したが再建された。
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    摂津古社寺探訪記東光寺門戸厄神

    2010-02-21 08:00:39 | 日記



    東光寺は関西では厄除けで有名で真言宗で本尊は薬師如来、阪急今津線門戸厄神駅より山手にある、開山は嵯峨天皇勅願所、弘法大師が開基とれ幾多の戦火に逢って開基以来の経緯は分かっていないが厄除けの門戸厄神で広く信仰を集めている。
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    摂津古社寺探訪神呪寺甲山大師

    2010-02-20 12:03:12 | 日記




    西宮は北、甲山の山腹に真言宗で摂津西国霊場、摂津88所霊場の甲山大師がある、開山は淳和天皇の妃真井御前、本尊は如意輪融通観音、また弘法大師ゆかりの寺で、境内から見る西宮の眺めは必見である。
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    神仏霊場巡り       青蓮院

    2010-01-10 22:42:42 | 日記




    神仏霊場巡り  青蓮院
    東山は知恩院を北に粟田御所の名ある地に青蓮院がある。三千院、妙法院と並ぶ天台三門跡の一院、比叡山は三千堂の一つに東塔南谷に青蓮院坊に端を発し鳥羽法皇の勅で七子の覚快法親王が三条通りと白川に房に住寺して青蓮院と改称し青蓮院門跡寺院となった。青蓮院は代々明治に至るまで門主は皇族が勤め平安時代から鎌倉時代に掛け最も栄えて、皇族の帰依も深く、浄土真宗の祖親鸞もこの寺で九歳で得度し、本願寺の起この由縁の地であったために本願寺の法主は代々当院で得度しなければ公に認められなかった。応仁の乱に悉く焼失し、その後豊臣家、徳川家にも再建の帰依があった。この院の何より有名なのは「不動明王二童子画像」青不動で国宝中の国宝で日本三不動の一つである。また庭園は室町時代の相阿彌の作で、小堀遠州の補作とされ名庭園のひとつである。
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    神仏霊場巡り   水無瀬神社

    2009-12-29 22:52:27 | 日記




    神仏霊場巡り 水無瀬神宮
    大阪、京都の境目に三島郡島本町に水無瀬駅、西北側に水無瀬神宮がある。
    承久の乱で隠岐に流され亡くなった後鳥羽天皇の離宮跡にその霊を慰めるために「御影堂」として創建されたのが始まりと言う。承久の乱で幕府に反旗を揚げた、後鳥羽天皇、土御門、順徳の三上皇を祭神として祀られた。後鳥羽上皇の寵臣だった藤原信成、親成親子への遺告の従い御影堂を建て冥福を祈った、また朝廷や幕府はその怨霊を恐れ積極的に保護をするようになり、室町中期「水無瀬宮」の称号を賜ったが、明治になって神社として「水無瀬神宮」と改称した。

    河内古社寺探訪


    2010-09-09 12:45:33 | 日記
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    河内史跡探訪夏の陣で戦死木村重成の墓

    2010-03-02 21:21:58 | 日記
    “河内史跡探訪 木村重成の墓
    大阪夏の陣は河内一円戦場となった。八尾市は幸町は萱振付近、東大阪市の若江と隣接するところに、大阪方の豊臣家の重臣で木村重成の墓がある。勇敢に武士の中の武士とまで言わせた木村重成は負け戦と知りながら、井伊軍と再度戦い井伊軍の山口重信軍と戦い共に討ち死にした。重成の首を討ち取った安藤長三郎の祖孫が重成の菩提に弔い為に墓碑を立てた。また数々の大阪方の武士の首級をこの地より南の定光寺で徳川方によって行なわれ、逸話に家康が重成の首実験に立会いこう褒め称えたと言う、「長門守木村重成は武士の中の武士」とほめた、重成の髷には香が結わいつけて、首を召し取られる事を覚悟、香を匂わせ見苦しき最期を敵に見せない、武士のたしなみ、心意気を見ることが出来る。

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    河内古社寺探訪円通寺

    2010-03-02 07:10:43 | 日記
    河内西国霊場の札所で融通念仏宗で本尊十一面観音は聖徳太子作と伝えられ物部氏追討の後に刻まれていた観音菩薩は四天王寺に安置、その後霊夢に観音菩薩が現れてこの寺にこられたという。
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    河内古社寺探訪観音禪寺

    2010-03-01 06:50:23 | 日記
    東大阪は稲田に河内西国霊場札所の観音禪寺がある。臨済宗妙心寺の僧が建立した、大伽藍の大寺は兵火に衰退してまったが大松の根元より聖観音が出土し御堂を設け三木城主の加護で再建、石平和尚が開基とした。
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    河内古社寺探訪萱振御坊恵光寺

    2010-02-28 11:07:27 | 日記




    浄土真宗の蓮如の六男蓮淳を開基として寺内町が作られ萱振御坊恵光寺中心に形成された、石山合戦に巻き込まれこの辺りは焼け野原になったと言う、大和川の付け替え後寺内町を中心に新田開発が行われ勢力が拡大していった。
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    摂津古社寺探訪記平林寺

    2010-02-22 07:06:49 | 日記
    摂津88カ寺、摂津西国霊場の平林寺本尊は釈迦如来である。宝塚は武庫川渡り今津線のガードをくぐった山手にある。寺の周りには寺社が多く中でもこの寺が古風なたたずまないから古が分かる、記述によれば聖徳太子が摂津国七大寺を建立、その一寺がこの寺で、空海が入寺、戦国時代に消失したが再建された。
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    摂津古社寺探訪記東光寺門戸厄神

    2010-02-21 08:00:39 | 日記



    東光寺は関西では厄除けで有名で真言宗で本尊は薬師如来、阪急今津線門戸厄神駅より山手にある、開山は嵯峨天皇勅願所、弘法大師が開基とれ幾多の戦火に逢って開基以来の経緯は分かっていないが厄除けの門戸厄神で広く信仰を集めている。
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    摂津古社寺探訪神呪寺甲山大師

    2010-02-20 12:03:12 | 日記




    西宮は北、甲山の山腹に真言宗で摂津西国霊場、摂津88所霊場の甲山大師がある、開山は淳和天皇の妃真井御前、本尊は如意輪融通観音、また弘法大師ゆかりの寺で、境内から見る西宮の眺めは必見である。
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    神仏霊場巡り       青蓮院

    2010-01-10 22:42:42 | 日記




    神仏霊場巡り  青蓮院
    東山は知恩院を北に粟田御所の名ある地に青蓮院がある。三千院、妙法院と並ぶ天台三門跡の一院、比叡山は三千堂の一つに東塔南谷に青蓮院坊に端を発し鳥羽法皇の勅で七子の覚快法親王が三条通りと白川に房に住寺して青蓮院と改称し青蓮院門跡寺院となった。青蓮院は代々明治に至るまで門主は皇族が勤め平安時代から鎌倉時代に掛け最も栄えて、皇族の帰依も深く、浄土真宗の祖親鸞もこの寺で九歳で得度し、本願寺の起この由縁の地であったために本願寺の法主は代々当院で得度しなければ公に認められなかった。応仁の乱に悉く焼失し、その後豊臣家、徳川家にも再建の帰依があった。この院の何より有名なのは「不動明王二童子画像」青不動で国宝中の国宝で日本三不動の一つである。また庭園は室町時代の相阿彌の作で、小堀遠州の補作とされ名庭園のひとつである。
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    神仏霊場巡り   水無瀬神社

    2009-12-29 22:52:27 | 日記




    神仏霊場巡り 水無瀬神宮
    大阪、京都の境目に三島郡島本町に水無瀬駅、西北側に水無瀬神宮がある。
    承久の乱で隠岐に流され亡くなった後鳥羽天皇の離宮跡にその霊を慰めるために「御影堂」として創建されたのが始まりと言う。承久の乱で幕府に反旗を揚げた、後鳥羽天皇、土御門、順徳の三上皇を祭神として祀られた。後鳥羽上皇の寵臣だった藤原信成、親成親子への遺告の従い御影堂を建て冥福を祈った、また朝廷や幕府はその怨霊を恐れ積極的に保護をするようになり、室町中期「水無瀬宮」の称号を賜ったが、明治になって神社として「水無瀬神宮」と改称した。
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    神仏霊場巡り 神峯山寺

    2009-12-28 21:43:39 | 日記




    神仏霊場巡り  神峯山寺
    高槻は今日と西山に抜ける東海自然歩道は「神峯山寺」の標識辺りから細い山道、車のすれ違いも難しい、曲がりくねった山間を行くと谷川の向こうに山門が見える。境内を行くと石段の上には、風雪を感じる古風な本堂には日本最初の毘沙門天霊場で古くより信仰され、別名多聞天と呼ばれ、開山は役行者で本尊の毘沙門天(別名多聞天)は役行者が刻んだものである。修行中の葛城山の山中で、北側の山中に光明を射すのを見てこの地に来た役行者は金毘羅童子に霊木を教えられ刻んだのが四方に光を放ち、一つが京都は鞍馬寺、一つは河内は信貴山の毘沙門天に、一つはこの山の北の峰に飛び散り、根元の残った像がこの寺の本尊になった。奈良時代には光仁天皇の子の開成皇子が帰依し多くの伽藍を寄進した。光仁天皇の勅願により境内には天皇の頭髪を納めた十三重の塔があり、その後に足利義満や豊臣秀頼の寄進が寄せられ大いに栄えたが江戸中期に多くの堂塔が焼失した、往時二十一坊もあった姿には戻らなかった。現在は五坊で法灯を役行者の伝統を受け継いでいる。
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    河内古寺社探訪   壷井寺  NO95

    2009-10-04 06:50:56 | 日記



    壺井寺
    河内は柏原市の法善寺、平安時代に法禅寺が建立されていたが戦火焼失しその後に再建されたのが壺井寺である。河内松原は丹南は布忍の大林寺の近くの永源寺の建物の資材そのまま移築されたという、珍しく寄棟造り重厚な造りである。現在は融通念仏宗として、この寺の本尊の阿弥陀如来の脇に避雷観音と言われる本体19.9センチ小さ白鳳時代の貴重な銅像として、な聖観音菩薩が厨子に祀られている。


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    河内古社寺探訪   観音寺NO94

    2009-10-03 13:22:07 | 日記

    観音寺
    柏原市は太平寺集落の山手の中腹にあって山寺と言う雰囲気の残る禅宗の古寺である。あの東大寺の建立のきっかけと成った「智識寺」の遺跡が点在するところで、河内六大寺の名残りと言われ、この辺りからと塔心礎や遺跡が発掘され記録にある、七堂伽藍を備えた大寺院が在ったと思われ、聖武天皇が立ち寄り東大寺建立の発心のきっかけとなった、観音寺の観音堂は名残言われている。河内西国札所として、また訪れ時にはヘチマ祈願法要の真っ最中でヘチマに願を込めて祈願をする変わった法要である。

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