2011年4月30日土曜日

浪速今昔百景7愛染さん

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浪速今昔百景(七)愛染さん(勝鬘院)
大阪はオフイス街の谷町筋を少し入った所に「勝鬘院」がある。大阪の夏祭りの先駆けの「愛染さん」は六月の三十日から七月二日に掛け、浪速の街々を切れに飾った「宝恵駕籠」に浴衣姿の「愛染娘」昔は芸者衆の綺麗どころが駕籠に乗ったが、今では厳選コンテストの審査で選ばれた女性十九才から三十五歳の愛染娘が「愛染さんじゃーホエカゴ」と掛け声賑やかに谷町筋を練り歩く、境内の樹齢数百年はあろうかと言うカツラの木のノウゼンカツラが巻きついて一体となった「愛染かつら」は映画の舞台になった「愛染かつらの木」である。愛染さんで親しまれている勝鬘院は創建は不詳だが聖徳太子の四天王寺建立の塔頭の施薬院の後だろうと言われている。本堂の裏側に廻って是非とも必見の古風な多宝塔(重文)は聖徳太子建立と伝えられている。その多宝塔も戦国時代に織田信長の大坂石山合戦で焼失した。そのご秀吉によって再建され現在では大阪市最古の建造物と言う。塔の内部に祀られている仏さんは「大日大勝金剛尊」で内部には極色彩に彩られた壁画が画かれている。勝鬘院の西行くと大江神社がある。天王寺七宮の一つ乾の宮として毘沙門天を祀っていたが明治の廃仏毀釈の前は天王寺一帯は神仏習合の信仰の上町台地であった。
神仏分離令後は、豊受大神を祀っている。境内には芭蕉の句碑など大阪縁の句が刻まれ、夕陽丘碑があって、神社の角を曲がり西に下る坂が「愛染坂」である。

2011年4月29日金曜日

浪速今昔百景6法楽寺(田辺のお不動さん)

法楽寺
浪速今昔百景(六) 法楽寺(田辺のお不動さん) 
この辺りでは随一の境内と伽藍である、山門をくぐると三重塔が見える。十五年位前に訪れたときには建設中だったが、実に立派な塔があってその奥の大きな本堂に本尊に不動明王が祀られている。境内の大きな楠も目を引く本堂の裏手にコミニュケションのホールなどあって、色々と信仰の人々との寺との関わりに工夫されている。法楽寺の創建は治承二年(1178)紫金山、院号を小松院と称し「たなべのお不動さん」本尊は不動明王で真言宗泉涌寺派大本山、近畿三十六不動札所、大阪十三仏札所、摂津八十八箇所札所となっている。地域では田辺のお不動と親しまれ八百年の法灯を守り続けている寺伝に記されている。開山は平家の棟梁平清盛の嫡男、小松内大臣平重盛公、治承二年(1178)の創設と言われている。仏教に深く帰依していた重盛は、平治の乱にも源氏、平氏のわけ隔てなく菩提を弔ったと言う。その後寺勢は大いに栄えたが戦国の乱世で荘厳殿堂が悉く堂塔は焼き尽くされ、江戸の中期の天正十三年(1585)洪禅普摂律師が河内の野中寺より晋山、大和の大宇陀より人夫を拝し建立、松山藩織田家の殿舎を譲り受け、再建された。また松山藩の縁の慈雲尊者も法楽寺の僧に従って出家したもので、わが国の「梵字」「日本の釈迦」と仰がれたのもこの寺の縁によるものである。

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2011年4月28日木曜日

古刹巡り建仁寺

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古刹百景    建仁寺
京都は八坂神社から西の祇園町界隈の繁華街の道を南に、一瞬静寂に包まれた空間こそ禅宗の名刹「建仁寺」である。二月の中、昨夜に降った雪が堂塔の屋根に雪化粧、人も影も無く禅堂を拝観することができた。創建以来八百年、日本の臨済宗の根本道場として栄え、多くの学僧、禅僧を育てた、わが国最古の禅寺として開山は栄西禅師、開基は源頼家。当初は禅寺として開山する事は困難で、天台、真言、禅の並立での、建仁寺建立であった。半世紀後の宋僧道隆(建長寺の開山)の入寺の頃から純粋禅の寺院となった。臨済宗建仁寺派本山で本尊は釈迦牟尼如来で京都五山の三位に列せられ、俵屋宗達の国宝「風塵雷神図」は有名である。開山の栄西は日本の禅宗の先駆の禅僧として備中は吉備津神社の社家に生まれ十一歳にして出家し、十三歳にして比延山に上がり、二十八歳にして博多より入宋し、明州より上陸し天台山等を巡拝し禅に着き学んだと言う。建仁二年(1201)に源頼家の帰依を受け鴨川の東に寺域を与えられて「建仁寺」を建立、栄西の没後も室町時代には足利幕府の手厚い加護を受け、塔頭六十余を数えて大いに栄えたが、応仁、文明の乱で諸堂は悉く焼失した。その後豊臣秀吉より寺領八百二十石の給付などあって、再建され寺勢が盛んになり順次堂塔が建立されていった。

神仏霊場巡り海神社

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神仏霊場巡り   海神社
海神社は神戸はJR垂水駅の直ぐ前にあって、浜大鳥居は海から本殿に向かって、一直線にあり、「海神社」(わだつみ)名の通り海に関わる神である。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神,上津綿津見神の三神に配神に大日?貴尊(天照皇大神)由来に寄れば千数百年前に神功皇后が三韓征伐の還りの時に、暴風雨の為に御座船が進む事ができず、皇后自ら綿津見三神にお祭になり、祈願された所、たちまち波風が立ち無事に都に帰れたと言う。その場所に綿津見三神の社殿を建てられて鎮座されたのが由来である。この神功皇后に纏わる話は摂津では住吉大社、生田神社、廣田神社、長田神社と良く似た由来があるが、海神社の祭神の綿津見大神は伊弉諾神の子神で天照皇大神・素盞鳴尊と住吉三神とは綿津見三神は兄弟神である。これらの神徳に海に纏わる神として、漁業繁栄と航海安全の祈願の神社として信仰を集めている。

2011年4月27日水曜日

浪速今昔百景(6)法楽寺

法楽寺
浪速今昔百景(六) 法楽寺(田辺のお不動さん) 
この辺りでは随一の境内と伽藍である、山門をくぐると三重塔が見える。十五年位前に訪れたときには建設中だったが、実に立派な塔があってその奥の大きな本堂に本尊に不動明王が祀られている。境内の大きな楠も目を引く本堂の裏手にコミニュケションのホールなどあって、色々と信仰の人々との寺との関わりに工夫されている。法楽寺の創建は治承二年(1178)紫金山、院号を小松院と称し「たなべのお不動さん」本尊は不動明王で真言宗泉涌寺派大本山、近畿三十六不動札所、大阪十三仏札所、摂津八十八箇所札所となっている。地域では田辺のお不動と親しまれ八百年の法灯を守り続けている寺伝に記されている。開山は平家の棟梁平清盛の嫡男、小松内大臣平重盛公、治承二年(1178)の創設と言われている。仏教に深く帰依していた重盛は、平治の乱にも源氏、平氏のわけ隔てなく菩提を弔ったと言う。その後寺勢は大いに栄えたが戦国の乱世で荘厳殿堂が悉く堂塔は焼き尽くされ、江戸の中期の天正十三年(1585)洪禅普摂律師が河内の野中寺より晋山、大和の大宇陀より人夫を拝し建立、松山藩織田家の殿舎を譲り受け、再建された。また松山藩の縁の慈雲尊者も法楽寺の僧に従って出家したもので、わが国の「梵字」「日本の釈迦」と仰がれたのもこの寺の縁によるものである。

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2011年4月26日火曜日

浪速今昔百景4住吉さん(住吉大社)

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浪速今昔百景(五)住吉さん(住吉大社)
摂津の国一宮は住吉大社で大阪人は心易く「住吉さん」と呼び、古くより浪速の守り神として人々に親しまれ路面電車の駅の前である。道を隔て大きな「高燈篭」が目に付く、鎌倉時代に奉納された日本最古の灯台である。「延喜式」「万葉集」に住吉の名が出てきて神として崇められていたと言う。
境内の石灯篭に数々、太鼓橋(反橋)の橋脚は淀殿が寄進された。また太鼓橋は明治以前には神輿以外は渡ることが許されず、近年になって一般の人も渡れるようになった。また年代や寄進者豪商の名前を見れば古さが分かり、住吉灯篭は七百本を数えその多さを見れば、その信仰の厚さを窺い知る事ができる。住吉大社は全国二千社有る住吉神社の総社で祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命(神功皇后)の四神を祀り、「古事記」「日本書紀」には住吉大社の由来に、神功皇后が長門豊浦か宮から仲哀天皇の遺骸をとり治めて海路より都に向かわれたときに、忍熊王の反乱に遭い、皇后の船は海を廻って進むことが出来なかった。務古水門(武庫川)帰られなく、占なった所、表筒男、中筒男、底筒男の三神の住吉の大神が現れて「わが魂を大津の淳中倉の長狭(今の住吉あたり)祀ることを言意「海の航行の安全を守ること約束したと言う」神功皇后は神の言う通り神を祀った所、船は進み平安に海を渡り帰還できたと言う。 代々この地の豪族津守氏が神官として仕え、神功皇后を加え手祀ったと言う。奈良時代より遣唐使などの海上の無事を祈り奉幣したと言う。神社形式では最も古く住吉造りの四棟の本殿(国宝)は西向きで第一殿底筒男命、第二殿中筒男命、第三殿表筒男命が東西に並び、第四殿の神功皇后は第三殿の南側に在って、二十年に一度の遷宮が行なわれる。また庶民の信仰の初詣では全国でも何時も上位で大阪一の賑わいを見せる。境内の南にある御田では「御田植神事」(国民俗)としてニュースで取り上げられる賑やかな踊りや舞が繰り広げられる事で有名である。夏越祭は「住吉工人のお渡り」と呼ばれ池上の橋を利用した神事が日本三台舞台の一つの石舞台(重文)で行なわれる。宝物として住吉社の縁起である「住吉大社神代記」一巻、など多数の重文がある。住吉大社周辺には摂社、末社などの神社や寺院が多く、中門の北に志賀神社があり、その隣には大海神社が鎮座し、境内の東には見事な大木樹齢千年と言われるクスの木がある、楠珺社、境内に東北に種貸社、境外の浅沢社、大歳社、住吉大社北側に生根神社があるが「延喜式」内社であるが明治までは摂社であったが独立をした。神仏分離令の前には寺院も住吉大社の支配下にあった。

2011年4月25日月曜日

浪速今昔百景(平野の大念仏寺

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浪速今昔百景(四)平野の大念仏
平野に府下最大の木造物が大念仏寺で、日本十三宗の一つで、融通念仏宗の総本山である。本尊は十一尊天得阿弥陀如来で開山良忍上人である。
JR平野駅から南へ五分、国道を渡ると昔ながらの町屋が見える。古来平野郷と称して自治独立を徳川家康から許された。その平野郷の中にあって浪速、河内、大和を中心に末寺、檀家を持ち、地元に根付いた念仏道場である。
大きな堂内で繰り広げられる大数珠回し「百万遍大数珠くり」五月の連休の五日間「平野の万部おねり」は浪速、河内、大和の、難波の風物詩である。
この平野の地に大念仏寺を創建したのは「良忍上人」(聖応大師1072~1132)尾張国生れである。比叡山に上がり修行後、洛北大原で二十余年の修行の末「阿弥陀仏」から融通念仏を授かり、諸国を念仏勧進をして、その途中の四天王寺に一夜参籠し聖徳太子の夢告により平野の地で大念仏会を開いた所、人々の参集があって、朝廷の天聴があって鳥羽天皇の加護と帰依があった。僧にだけ留まらず一般庶民にまで普及し信者が急増した。室町には僧法明が各地の寺院に広め融通念仏が行なわれた。「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」と言う風に念仏の功徳を融通するものであった。この念仏の考え方はその後の日本の阿弥陀信仰に大きな影響を与えた。中世、近世と伝統的な行事などは近年まで続けられ、浪速、河内一円で十一尊天得阿弥陀如来を奉納し鉦を打ち鳴らし檀家を廻る法要は有名である。また本堂の天井の周りに吊ってある巨大な数珠は法会に降ろし信者が堂内を輪になって念仏をあげながら数珠を廻し、繰る法会はニュースの映像でよく見ることができる。

2011年4月24日日曜日

浪速今昔百景(3)坐摩神社いかすり

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浪速今昔百景(三)“坐摩神社”いかすり
摂津の国一ノ宮は「住吉大社」で名が知られているが、平安時代には摂津国西成郡一座の大社として記載されている。御祭神は、生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神の五柱の神を祭り、住吉大社に次ぐ大社として大宮(皇居)地霊を守る神として摂津の国一ノ宮として扱われてきた。元々一ノ宮は平安時代から鎌倉に掛けその時代、その土地の情勢によって勢力、信仰の力によって一ノ宮が形成されてきた経緯上、諸国にはこれと言った認定は認可がなかったようで一ノ宮は時代によって変わってゆき、一ノ宮、二ノ宮から、八ノ宮と形成されて来た経緯上、この坐摩神社は仁徳天皇の時代、難波高津宮皇居としていた時に地霊として祀られたいたものと伝えられる。現在は大阪都心の真ん中目抜き通りの、オフイス街にあって周りはビルが林立して居る所にあるが、創建時の鎮座場所は大阪城の西方一帯の天満橋辺りだったらしいが、豊臣秀吉の大阪城の折に現在の地に遷座されたようである。中世には住吉大社とは本末関係にあったらしく、神功皇后が応神天皇を御出産の折には、阿須波神に祈り奉納されたそうである。安産の神として、陶器の神の神社として、夏越神事と共に夏祭りが、秋冬には鳥懸神事がビジネス街で賑わいを見せる。

浪速今昔百景2高津宮と報恩院

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浪速今昔百景(二)高津宮と報恩院
大阪は上町台地、谷町九丁目の北に一筋入った所に向かい合って高津宮と報恩院がある。仁徳天皇が高台から民のかまどの煙が立たぬことを知って免税をした縁の地である。また難波高津宮に遷都したと伝えられる、宮跡に高津宮が鎮座する。
祭神は主神祭に仁徳天皇・左座に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、右座に葦姫皇后・履中天皇を祀る。豊臣秀吉が大坂城を築城をするときに、この地に遷座した、その時に比売古曾神社も境内に遷座し高津宮の地主神として摂社とした。
ところが第二次世界大戦で神輿庫を残し焼失、昭和三十六年に再建された。この高津宮は落語に文楽に登場する舞台であり、庶民の憩いと守り神である。中でも上方落語の「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」がる。「高津の富」はこの神社の境内で富くじが繰り広げ、泣き笑いの人情話は有名である。この寄席に五代目桂文枝一門が関わっており、今は亡き文枝最後の講演は「くろもん寄席」であり境内には石碑が建立されている。
また歌舞伎の坂田藤十郎襲名披露前の高津宮での祈願祭と絵馬奉納も行なわれた。境内は梅林の散策道に高倉稲荷神社、梅乃井、垣富庵石碑、北坂に西坂(旧縁切り坂)相合坂と庭園を散策して浪速の風情を感じると言うものである。
道を一つ隔て南側に報恩院がある。真言宗醍醐寺派で開山良遍上人、本尊不動明王である。こじんまりとした境内を入った正面に戦災で焼け残った「相生の樟」を背に立つ「高津北向不動」と称する水掛け不動は大阪商人の参詣の人多く線香の絶え間がない、また「夢見せ不動」とも呼ばれている。左手のお堂は阿閦如来を安置、ぐるりと参道を巡り、神変大菩薩、秋葉大権現と庶民の願と、現世利益を授けてくれる大阪の下町の守ってくださる諸仏である。

2011年4月23日土曜日

浪速今昔百景 1天王寺さん

浪速今昔百景(一)天王寺さん

浪速今昔百景(一)天王寺さん
四天王寺と言えば大阪を代表する寺院で、お盆に、お彼岸に難波っ子は、こぞって「天王寺さん」にお参りをすると言っても過言ではない、宗派を超えて老若男女がお参りするのが四天王寺である。本尊は金堂に祀られている救世観世音菩薩である。歴史的に連綿と続いた浪速の風習伝統文化に、大阪人の心の拠り処が天王寺かも知れな。
天王寺駅から北へ、西門に着くと、大きな石の鳥居は七百年余り前に伏見天皇の勅命により造り改めた。鳥居に掛けてある額「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」の十六文字が書かれ筆者は聖徳太子、空海とも言われているが、その横に石柱に「大日本仏法最初四天王寺」記されている。
今の天王寺の伽藍、堂塔は戦後の再建の堂塔で、室戸台風で伽藍が倒壊、先の大戦の空襲で悉く焼失した。その創建は「日本書紀」によれば推古天皇の時代に造営が開始されたと言う。太子の開山にあたり「天王寺縁起」に示されたのは「四箇院の制」で仏教修行の”敬田院”病人に薬を施す”施薬院“貧しく身寄りの無いもの”悲田院”病気を治癒する“療病院“の四つの願いを立てられた、今もその精神は「四天王寺」に受け継がれている。
平安時代に入ると最澄の開いた天台宗と空海が開いた真言宗に影響された、延暦六年(787)空海は四天王寺に借住し西門で沈む夕陽を見て「西方極楽浄土」観想し、その後四天王寺初の別当に真言系の東寺の円行が就き真言宗との関係が深まるが、その後は天台宗の影響を受ける、弘仁七年(816)に最澄が借住し、法華宗を広め六時堂などを創建し更に弟子の光定や円仁が参篭し法華経、仁王経などを講義し教義を深め別当も天台系に引き継がれていった。
太子信仰は天皇、貴族の厚い信仰と庇護の元に参篭が成された、鳥羽上皇、後白河天皇や貴族の藤原頼長も熱心に参篭をした。日本の立宗開花した高僧では融通念仏の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍も熱心に参篭した。今は浪速っ子の憩いと「あの世とこの世と結ぶ西門か挟んでの架け橋」で盆、彼岸は老若男女こぞって「天王寺詣り」浪速庶民の心の縁りところである。