2010年11月3日水曜日

聖地霊地を巡る 貴船神社

鞍馬寺と縁の深い貴船神社は、鞍馬寺裏山を越えて貴船神社へと続くが京都からは鞍馬寺手前の分岐点を左に行くと、川沿いの斜面に鳥居に大樹が見える。緩やかな石段を上った所に優美な曲線を画いた社殿が見える。賀茂川の水源にあたり、水を司る神さんを祀っている。社伝に拠れば神武天皇の母君の玉依姫命が黄船に乗って難波津から淀川を経て鴨川を遡り、現在の奥宮の地に至り水神を祀ったのが創建と言う。境内には「水占みくじ」は御神水にみくじを浸し吉兆を占い参拝者に人気がある。祭神は本殿が高龗神(たかおかみのかみ)中宮は磐長姫命、奥宮は高龗神を祀っている。延喜式には愛宕郡「貴布禰神社」と見えて名神大社、高は山峰を指し龗は龍神で雨を司る神である。鞍馬、貴船の奥深い峰々は神秘な霊気の宿る京都の北の霊峰にある。

神仏霊場巡り 鞍馬寺」


鞍馬寺は京都の北にあって王城鎮護の寺として古くより朝廷の深い信仰を受けていた。寺伝の「鞍馬蓋寺縁起」に寄れば奈良時代に苦難十三年の後に来日した鑑真和上の高弟鑑禎が鑑真の示唆で「山城国北方高山に霊地あり」のお告げにより宝の鞍を敷いた白馬に導かれ、毘沙門天の加護を得て草庵を結んだのが始まりと言う。
今では交通の良さとケーブルで本殿の下まで行けるが昔は山奥深く、昔は昼尚薄暗い九十九折り参道は秘かに身を隠した義経公の伝説と、霊気漂い天狗の出てきそうな森林の中にある。
延暦年間に観音菩薩の祀る所を探していた藤原伊勢人が貴船明神の教示で放たれた白馬に導かれ、この毘沙門天の草堂に着き、千手観音菩薩と毘沙門天を合わせ祀った。白馬の霊夢の由来に「鞍馬寺」としたと伝わる。千手観音菩薩、毘沙門天に加えて「護法魔王尊」が現れて三身一体として「尊天」として崇め祀り、本尊を「鞍馬尊天」としている。
平安期から真言宗、天台宗と変わり、戦後何れの宗派にも属さない鞍馬弘教総本本山と改めた。盛時は十院九坊の伽藍を誇り特別な位置を占めた。毎年行われる本殿の前で「竹伐り会式」はこの寺の中興の祖峯延が法力で大蛇を退治した古事に習うものである。仁王門か本殿前の間に荘厳な由岐神社がある、鞍馬寺が御所から鎮守として勧請したものである。川上地蔵、義経供養塔(東光坊跡)と義経堂と牛若丸「息つきの水」と義経縁の史跡も多く残されている。

2010年10月24日日曜日

神仏霊場巡り闘鶏神社


神仏霊場巡り 闘鶏神社
社殿に寄れば創建は允恭天皇の時代に熊野三山の熊野権現を勧請この地に田辺の宮と称し祀ったのが始まりと言う。その後熊野の別当湛快が天照皇大神以下十二神を勧請した。社名については源平の争う中、熊野の別当湛増は源氏、平家の何れの組するかに迷ったあげく、赤白の分けた闘鶏に七度戦わせ占わせた。結果赤の闘鶏が勝利し源氏に組する事に成ったと言う。湛増は熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献したと言う。(一説に湛増は弁慶の父親と言う)


2010年9月19日日曜日

一宮探訪淡路国伊弉諾神宮

神話の島。オノコロ島は淡路島でイザナギとイザナミが神造り、国造りをされた最初の島、神殿と八尋殿から天地創造された。

2010年8月12日木曜日

四天王寺の千日まいり

浪花の夏は天王寺さん一心寺の盆参りで盛夏を迎え、先祖供養と亡きを偲。近年暑い真昼を避けて蝋燭に書き込んだ先祖や亡き人の戒名や名を書き火を灯し霊を慰める四天王寺の千日まいりは夕闇に淡い灯は幻想的である、特に9、10日にお参りすれば先日分の功徳があると言う。

浪花の夏は天王寺さん一心寺の盆参りで盛夏を迎え、先祖供養と亡きを偲。近年暑い真昼を避けて蝋燭に書き込んだ先祖や亡き人の戒名や名を書き火を灯し霊を慰める四天王寺の千日まいりは夕闇に淡い灯は幻想的である、特に9、10日にお参りすれば先日分の功徳があると言う。

2010年5月19日水曜日

”神仏霊場巡り  寂光院

大原川を隔てた所に、天台宗は尼寺の寂光院がある。聖徳太子が父用明天応の菩提を弔うために建立されたと言う。本尊は六万体地蔵菩薩立像で、近年火災で本堂と共に焼失、損傷を受け今は修復中である。何よりこの寺を歴史的に有名にさせたのは、源平の合戦の後、わが子安徳天皇の菩提を弔うために、建礼院門が過ごした「念佛三昧」の日々を偲んだのがこの寂光院である。その後衰退をしたが、寂光院を豊臣秀頼の母淀君が桃山様式のものを古式通り復元した。今尚平家物語のまま「心字池」や姫小松など平家縁の寺である。

2010年5月18日火曜日

神仏霊場巡り 三千院

三千院は大原を代表する名刹寺院である。創建は最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺建立の折に、草庵を結ばれたのに端を発し、一念三千院、円融院と称し、代々皇族の住持する寺、門跡で天台五カ室門跡の一つである。有名な「往生極楽院」は浄土宗の確立に寄与した源信が父母の菩提を弔いとめに建立、お堂に比べ大きい「阿弥陀三尊」(国宝)納めた天井舟底型と言う構造、両脇時は「大和座り」が特徴、境内は苔生した聚碧園、有清園はもみじ、四季折々の花々と草木は必見である。

2010年5月17日月曜日

神仏霊場巡り 大原 来迎院

洛北、大原の里と言えば「三千院」「寂光院」有名であるが、その他の隠れた古刹が地名にもある大原来迎院である。賑やかな三千院の参道に見落としそうな来迎院の標識がある。一歩参道を外れると、外界と隔絶する来迎院本堂や音無しの滝がある。境内にはいると、静寂が辺りを包み、知る人しか訪れる事の無い、天台宗は融通念仏宗の道場である。開山は円仁(慈覺大師)で声明の道場として開山した、その後、わが国の浄土宗、念仏の先駆けといえる良忍(聖応大師)が比叡山問う東塔を離れ、この寺に入寺し修行を経て阿弥陀如来より融通念仏を感得した。良忍は尾張の生まれ、十三歳で比叡に上がり修行し、園城寺の禅仁に大乗戒を受け、各地で遊学(修行)、融通念仏宗を広め、その後弟子達によって引き継がれて融通念仏宗なって、本山は大阪平野は大念仏寺で良忍は宗祖である。

2010年5月5日水曜日

大阪は平野の万部おねり

大阪は平野の万部おねり、融通念仏宗本山大念仏寺の五月に行われる無形民俗文化財は大阪の風物詩、鐘と読経が流れる。

2010年4月20日火曜日

神仏霊場巡り 日牟禮八幡宮

“神仏霊場巡り  日牟禮八幡宮
近江八幡宮で親しまれ市の名前にもなっている「日牟禮鉢八幡宮」は成務天皇が、高穴穂宮に即位するとき、武内宿禰に命じて「大嶋大神」を祀ったのが始まりという。祭神は誉田別尊、息長足姫尊、比売神の三神である。応神天皇六年に天皇の近江行幸の際に奇瑞に会い、祠を建て「日群八幡宮」と称し祀った。一乗天皇の時に社を立て宇佐八幡に勧請し「上八幡宮」を祀ったと言う。その後、遥拝の社を麓につくり「下の社」とした。皇室の信任深く、また武家の信仰も盛んで足利、徳川両家の崇拝を受け、八幡城が築かれて、安土より移住した人々により城下町が形成された。


2010年4月19日月曜日

神仏霊場巡り 御上神社

”神仏霊場巡り 御上神社
滋賀県は名神の栗東ICから竜王IC間走っていると形の良いこんもりとした山423メートルの近江富士の三上山の麓、孝霊天皇の御世、三上山に天之御影命が降臨し、三上山を磐境(岩坂)と定め祀った。元正天皇の勅命によって藤原不比等が社殿を建立させた。「延喜式」名神大社である、武門と崇拝厚く、源頼朝の三千貫余の神領の寄進、足利尊氏や豊臣秀吉の社領の寄進、近江の六角泰綱、佐々木正頼などの加護があった。本殿は仏道様式を取り入れた神社建築で国宝である。平安時代の「日本霊異記」にも三上の神が白猿になり僧の読経を頼む説話など、仏教徒の関わりが深い神社である。

 

2010年4月18日日曜日

神仏霊場巡り 長命寺

神仏霊場巡り  長命寺
近江は琵琶湖の湖畔に、近江八幡は水郷めぐり西の湖の河口の山手に長命寺がある、西国札所は三十一番札所で本尊は千手十一面観音菩薩で古くより観音霊場としてその名は知られている。湖畔の麓より長い階段の参道は今はハイキングコース、若者なら登れるが急な斜面は境内の下まで車で登る。境内から見る琵琶湖の眺望は絶景である。山門の右手に三重塔、重厚な本堂には千手十一面観音菩薩、寺伝に寄れば聖徳太子が伽藍を造営し自ら刻んだ本尊の観音菩薩、寺名は古くは武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と刻み祈願したところ、その功徳が有って長生きをしたという。その故事に因み名付けられたと言う。その後近江の守護佐々木定綱が父の菩提を弔い堂塔を寄進、その後戦乱で焼失したが再建された。三重塔は桃山時代、本堂は室町時代、本尊千手観音立像は毘沙門天など何れも重文である。



2010年3月28日日曜日

神仏霊場巡り百済寺

西明寺を更に南下すると国道より山手に行くと百済寺の山門が見える。門より長い石段を登り詰めると本堂が見える。天台宗で本尊は十一面観音菩薩である。開山は聖徳太子の勅願によって百済の僧恵慈が、この山の霊木を見つけて像を刻み堂を建立したのが始まりと言う。近江最古の由緒の寺院として栄え、比叡山が開宗されると天台寺院として湖東の天台別院として一山寺坊千を数え千三百人を越え他が、佐々木六角の内紛に巻き込まれ、更に信長の焼き討ちで一山灰と化した、その後天海によって再建され、井伊家の加護で復興された。今でもその往時の坊舎跡が見られる。境内の「天下遠望の名園」庭園は必見でる。

2010年3月3日水曜日

河内史跡探訪記




河内古社寺探訪円通寺

河内西国霊場の札所で融通念仏宗で本尊十一面観音は聖徳太子作と伝えられ物部氏追討の後に刻まれていた観音菩薩は四天王寺に安置、その後霊夢に観音菩薩が現れてこの寺にこられたという。

2010年3月2日火曜日

河内史跡探訪木村重成の墓

河内の夏の陣の古戦場

河内史跡探訪 木村重成の墓

“河内史跡探訪 木村重成の墓
大阪夏の陣は河内一円戦場となった。八尾市は幸町は萱振付近、東大阪市の若江と隣接するところに、大阪方の豊臣家の重臣で木村重成の墓がある。勇敢に武士の中の武士とまで言わせた木村重成は負け戦と知りながら、井伊軍と再度戦い井伊軍の山口重信軍と戦い共に討ち死にした。重成の首を討ち取った安藤長三郎の祖孫が重成の菩提に弔い為に墓碑を立てた。また数々の大阪方の武士の首級をこの地より南の定光寺で徳川方によって行なわれ、逸話に家康が重成の首実験に立会いこう褒め称えたと言う、「長門守木村重成は武士の中の武士」とほめた、重成の髷には香が結わいつけて、首を召し取られる事を覚悟、香を匂わせ見苦しき最期を敵に見せない、武士のたしなみ、心意気を見ることが出来る。

河内古社寺探訪萱振御坊恵光寺

浄土真宗の蓮如の六男蓮淳を開基として寺内町が作られ萱振御坊恵光寺中心に形成された、石山合戦に巻き込まれこの辺りは焼け野原になったと言う、大和川の付け替え後寺内町を中心に新田開発が行われ勢力が拡大していった。

2010年2月22日月曜日

摂津古社寺探訪記平林寺

摂津88カ寺、摂津西国霊場の平林寺本尊は釈迦如来である。宝塚は武庫川渡り今津線のガードをくぐった山手にある。寺の周りには寺社が多く中でもこの寺が古風なたたずまないから古が分かる、記述によれば聖徳太子が摂津国七大寺を建立、その一寺がこの寺で、空海が入寺、戦国時代に消失したが再建された。

2010年2月21日日曜日

奈良古社寺探訪記宝山寺

生駒山は奈良県側の山腹に通称生駒さんで親しまれる宝山寺は本尊不動明王、役の行者が開山の霊峰、弘法も修行したという、中興の祖湛海が入寺し真言密宗の道場として栄えた、また歓喜聖天の商売繁盛、家庭円満の御利益に奈良、大阪から信仰する人々が生駒から日本一古いケーブルにお参りする人が多い。

摂津古社寺探訪記東光寺門戸厄神

東光寺は関西では厄除けで有名で真言宗で本尊は薬師如来、阪急今津線門戸厄神駅より山手にある、開山は嵯峨天皇勅願所、弘法大師が開基とれ幾多の戦火に逢って開基以来の経緯は分かっていないが厄除けの門戸厄神で広く信仰を集めている。

2010年2月20日土曜日

摂津古社寺探訪神呪寺甲山大師




西宮は北、甲山の山腹に真言宗で摂津西国霊場、摂津88所霊場の甲山大師がある、開山は淳和天皇の妃真井御前、本尊は如意輪融通観音、また弘法大師ゆかりの寺で、境内から見る西宮の眺めは必見である。