2009年12月29日火曜日

神仏霊場巡り   水無瀬神社




神仏霊場巡り 水無瀬神宮
大阪、京都の境目に三島郡島本町に水無瀬駅、西北側に水無瀬神宮がある。
承久の乱で隠岐に流され亡くなった後鳥羽天皇の離宮跡にその霊を慰めるために「御影堂」として創建されたのが始まりと言う。承久の乱で幕府に反旗を揚げた、後鳥羽天皇、土御門、順徳の三上皇を祭神として祀られた。後鳥羽上皇の寵臣だった藤原信成、親成親子への遺告の従い御影堂を建て冥福を祈った、また朝廷や幕府はその怨霊を恐れ積極的に保護をするようになり、室町中期「水無瀬宮」の称号を賜ったが、明治になって神社として「水無瀬神宮」と改称した。

2009年12月28日月曜日

神仏霊場巡り 神峯山寺



神仏霊場巡り  神峯山寺
高槻は今日と西山に抜ける東海自然歩道は「神峯山寺」の標識辺りから細い山道、車のすれ違いも難しい、曲がりくねった山間を行くと谷川の向こうに山門が見える。境内を行くと石段の上には、風雪を感じる古風な本堂には日本最初の毘沙門天霊場で古くより信仰され、別名多聞天と呼ばれ、開山は役行者で本尊の毘沙門天(別名多聞天)は役行者が刻んだものである。修行中の葛城山の山中で、北側の山中に光明を射すのを見てこの地に来た役行者は金毘羅童子に霊木を教えられ刻んだのが四方に光を放ち、一つが京都は鞍馬寺、一つは河内は信貴山の毘沙門天に、一つはこの山の北の峰に飛び散り、根元の残った像がこの寺の本尊になった。奈良時代には光仁天皇の子の開成皇子が帰依し多くの伽藍を寄進した。光仁天皇の勅願により境内には天皇の頭髪を納めた十三重の塔があり、その後に足利義満や豊臣秀頼の寄進が寄せられ大いに栄えたが江戸中期に多くの堂塔が焼失した、往時二十一坊もあった姿には戻らなかった。現在は五坊で法灯を役行者の伝統を受け継いでいる。

2009年12月25日金曜日

一ノ宮探訪   伊賀一ノ宮敢国神社



「一ノ宮探訪」伊賀国一ノ宮
“敢国神社”
名阪国道「伊賀一ノ宮インター」から少し山沿いを入った所に伊賀国一ノ宮「敢国神社」が鎮座する。創建は千三百年前大彦命と少彦命の二神で敢国神社が創建された。その後、祭神は主神に大彦命、配神に少彦命・金山比咩命が加えられて三神になった。主神の大彦命は八代天皇孝元天皇の皇子として、祟神天皇の時代に四道将軍として北陸開拓の後のこの地、伊賀国に永住されたと言う、伊賀国の阿拝(あえ)郡を中心に安部、阿倍氏を名乗りあべ氏の総祖神でもある。また古代伊賀地方には渡来民族秦族が多数居住し、彼らの信仰の神が当神社の配神少彦神である。当時は現在より南山近くの山頂付近にお祭をしていたものを、創建時に現在地に二神を合わせ祭って伊賀人は混血の民族でもあった。元の南山に有った少彦神の地跡に美濃国の南宮社の金山媛命を勧請したと言う、その後九九七年に南山宮の金山媛命の社殿が虫食いによって崩壊したので、主家の藤原兼家に報告し敢国神社に合祀られたと思われる。この辺りの渡来人の秦氏は色々な技術文化を伝え組紐、伊賀焼き、酒造り、芸能の伝え田楽の祖の観阿弥も伊賀の出身である。また神社の伝統文化の獅子神楽の原型もこの神社が伝え、伊勢神宮の獅子神楽に大きな影響を与えた。金山彦命を祀る神社は全国に三千社有って鉱山、製鉄、製銅技術を持つ渡来人の祖先神であろう。中世には南宮菩薩として義経など入京に当たって参拝をしている。天正年間には戦禍で焼失、藤堂氏によって再建し、社領百七石を寄進し信仰をして崇拝をしていた。俳人松尾芭蕉も参拝し「手はかむ音さえ梅の匂いかな」の句を残している。明治に国幣中社になって伊が一ノ宮として信仰を集め、獅子神楽は、郷土芸能として三重県無形文化財に指定されている。

2009年12月23日水曜日

神仏霊場巡り    長田神社






神仏霊場名巡り  生田神社
神戸は町の繁華街を少し山手に向かった所に騒音から隔絶された静寂に生田神社の社殿と木々に包まれた境内がある。祭神は天照大神の幼名とも妹とも伝えられる「稚日女尊」で神功皇后が難波に向かっていた船が突然進まなくなったので、務古水門に帰って占った所、天照大神の神託で「活田の地」に稚日女尊が祭られたと言う。生田の森は清少納言の「枕草子」にその名が出てくる、平安時代には和歌にも読まれた森で、大きな森だったと言う。源平合戦に平家軍がこの森に陣を張った為、源平縁の史跡が残っている。また南北朝の楠正成、足利尊氏の合戦の陣屋にもなった。その他「弁慶の竹」と言って義経の代参で奉納した竹があり、神功皇后の釣竿の竹は、占いの為の釣竿の竹と伝えられる。境内には末社十三社も有って中でも最も古い社殿の「大海神社」に猿田彦大神が祭られている。生田神社は海の航海、安全の守りの神として古来より信仰されている。

神仏霊場巡り    海神社


神仏霊場巡り   海神社
海神社は神戸はJR垂水駅の直ぐ前にあって、浜大鳥居は海から本殿に向かって、一直線にあり、「海神社」(わだつみ)名の通り海に関わる神である。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神,上津綿津見神の三神に配神に大日孁貴尊(天照皇大神)由来に寄れば千数百年前に神功皇后が三韓征伐の還りの時に、暴風雨の為に御座船が進む事ができず、皇后自ら綿津見三神にお祭になり、祈願された所、たちまち波風が立ち無事に都に帰れたと言う。その場所に綿津見三神の社殿を建てられて鎮座されたのが由来である。この神功皇后に纏わる話は摂津では住吉大社、生田神社、廣田神社、長田神社と良く似た由来があるが、海神社の祭神の綿津見大神は伊弉諾神の子神で天照皇大神・素盞鳴尊と住吉三神とは綿津見三神は兄弟神である。これらの神徳に海に纏わる神として、漁業繁栄と航海安全の祈願の神社として信仰を集めている。

2009年12月19日土曜日

京都古社寺探訪記  知恩院





京都古社寺探訪    知恩院
京都は東山に浄土宗総本山知恩院がある。宗祖法然上人が後半生から没するまで過ごした縁の地である。阿弥陀仏をひたすら救済の仏とし法然房源空は東山吉水(現在の知恩院勢至堂付近)に庵を結んだことを起源とする。法然、岡山は美作国生まれ、比叡に上がり西塔は黒谷で叡空に師事し「専修念佛」の境地に開眼、浄土宗を立宗開花をさせるが弾圧を受け流罪に、許され翌年八十歳で没する。重厚な本堂の伽藍は名工 左甚五郎が魔除けに置いた,白狐の化身が置いたとも伝えられる傘で知恩院を火災から守るものとされ、また本堂から方丈への廊下の鶯張りの廊下、日本屈指の堂々たる五間三戸の三門は東大寺の南大門より大きく禅宗様で天井には龍図に釈迦如来蔵など宝物の数々、阿弥陀堂、権現堂、多宝塔、方丈庭園、宝仏殿などと多くの美術工芸品の数々は歴史的重要な文化財である。この寺院の持つ時代の大きさを窺い知る事が出来る。

2009年12月15日火曜日

神仏霊場巡り  清水寺





神仏霊場巡り  清水寺
西国観音霊場十六番札所で京都を代表する観光の寺と言えば清水寺である。諺や表現に「清水の舞台から飛び降りる」また年末の恒例のその年の「言葉」もマスコミに話題になる。開山は大和の僧延鎮で、修行で淀川を遡り音羽の滝辺りに差し掛かり白髪の翁に出会いこの土地を譲り受け、庵を結んだのが始まりと言う。その後鹿狩りに来ていた坂上田村麻呂は延鎮に出会い殺生を諭され帰依し堂塔を寄進、十一面観音像、地蔵菩薩、毘沙門天を安置したのが始まりである。八四七年(承和十四年)三重塔など七伽藍が整備され「枕草子」「今昔物語」「平家物語」などの登場の舞台になり、朝野のを越え清水詣でが盛んに行なわれたが度重なる戦火に幾度も遭遇した。中でも興福寺と延暦寺の平安京の仏教の覇権を巡り、興福寺の末寺であった為に戦場の渦中に巻き込まれた。その都度再建が成されて復興され伝統と法灯は護られた。門前街には清水焼の陶器などと京都漬物屋など軒を連ね、五条坂,三年坂と京都らしい風情のする町並みが観光客の旅情誘うものである。

聖地霊地を巡る 四天王寺










聖地霊地を巡る
”太子縁り四天王寺“
四天王寺と言えば大阪を代表する寺院で、お盆に、お彼岸に難波っ子は、こぞって「天王寺さん」にお参りをすると言っても過言ではない、宗派を超えて老若男女がお参りするのが四天王寺である。本尊は金堂に祀られている救世観世音菩薩である。歴史的に連綿と続いた浪速の風習伝統文化に、大阪人の心の拠り処が天王寺かも知れな。
天王寺駅から北へ、西門に着くと、大きな石の鳥居は七百年余り前に伏見天皇の勅命により造り改めた。鳥居に掛けてある額「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」の十六文字が書かれ筆者は聖徳太子、空海とも言われているが、その横に石柱に「大日本仏法最初四天王寺」記されている。
その創建は「日本書紀」によれば推古天皇の時代に造営が開始されたと言う。
聖徳太子は仏教導入に当たり廃仏派の物部氏との戦いに勝利祈願に四天王の建立を誓ったと言う、勝利をした聖徳太子は大和に「法隆寺」仁徳縁の難波荒陵山に四天王寺を建立した。太子は大陸との交流、交易の拠点の浪速の入り江に、倭国の誇示する大伽藍の建立は未来を見据えた深い展望の意図があった。
開山にあたり「天王寺縁起」に示されたのは「四箇院の制」で仏教修行の”敬田院”病人に薬を施す”施薬院“貧しく身寄りの無いもの”悲田院”病気を治癒する“療病院“の四つの願いを立てられた、今もその精神は「四天王寺」に受け継がれている。
平安時代に入ると最澄の開いた天台宗と空海が開いた真言宗に影響された、延暦六年(787)空海は四天王寺に借住し西門で沈む夕陽を見て「西方極楽浄土」観想し、その後四天王寺初の別当に真言系の東寺の円行が就き真言宗との関係が深まるが、その後は天台宗の影響を受ける、弘仁七年(816)に最澄が借住し、法華宗を広め六時堂などを創建し更に弟子の光定や円仁が参篭し法華経、仁王経などを講義し教義を深め別当も天台系に引き継がれていった。
太子信仰は天皇、貴族の厚い信仰と庇護の元に参篭が成された、鳥羽上皇、後白河天皇や貴族の藤原頼長も熱心に参篭をした。日本の立宗開花した高僧では融通念仏の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍も熱心に参篭した。
その後四天王寺が隆盛を極めたのが天台山門派の学問僧”慈円”だと言われている。諸堂を再建し自ら別当に就任したが、鳥羽、後白河上皇の頃に天台宗寺門派園城寺の強い影響の基にその後の別当の補任では山門派、寺門派の争いは激化した。
武士の時代に入って将軍頼朝の参拝しが、南北朝の争いに、応仁の乱にも戦禍に逢い多くの堂塔が焼失した。信長の石山合戦にも戦禍に逢い秀吉によって再建された。
明治に入って神仏分離令で傘下の鎮守の神社は分離、広大な境内は公園に、昭和に入って室戸台風、大阪大空襲に焼かれてほぼ境内が全滅したが、大阪人の心の拠り所の天王寺は徐々に再建され、昭和二十一年に和宗総本山として独立、天王寺式伽藍配置」の復活し堂塔伽藍が再建されて、彼岸、お盆には引導金に亀井堂、亀の池に石舞台、六時堂に元三大師堂、露店の呼び込みの声、昔ながらの賑わいを見せる「天王寺さん」には今も宗派を越え時代を超え脈々として「太子」の思いが伝わる浪速の街の心情がある。
聖地、霊地を巡る。
                     川村一彦著

2009年12月14日月曜日

神仏霊場巡り  八坂神社





神仏霊場巡り  八坂神社
京都に有って夏に繰り広げられる祭と言えば「祇園祭」である。毎年大晦日の「おけら詣り」も年の瀬の話題である。創建は斉明天皇の時代に、八坂の地に素盞鳴命を祀る社殿を建立したのが始まりとされ、その後「祇園感神院」「祇園社」「祇園天神」などと呼ばれ神仏習合の地であった。平安時代には興福寺と延暦寺の対立の折りには、最初は興福寺の傘下にあったが、戦いの後に比叡山延暦寺の傘下に入れられた。明治になって「八坂神社」に改められた。祭神は本殿中御座に素盞鳴命、東御座に櫛稲田姫命、西御座には八柱御子神が祀られている。「式内社」ではないが二十二社に列せられ、境内には多くの摂社,末社を有し、鴨川の西側に広大な社領を与えられ、朝野の厚い信仰を集めた。

2009年12月13日日曜日

神仏霊場巡り  六波羅蜜寺




仏霊場巡り    六波羅蜜寺
京都は鴨川の東側は町屋の真ん中に六波羅蜜寺がある。西国観音霊場の十七番札所で、創建は踊念仏で知られる市聖(いちひじり)空也が平安中期に十一面観音像を本尊として建立された道場に由来し、最初は西光寺と言われた。空也がこの頃、京都に蔓延した疫病に病人にお茶を振舞い,鴨川に疫病によって亡くなった人々の遺体の捨て場になっていた所に、僧6百人を集め大規模な供養会を行い、西光寺を建立したのが始まりと言う。その後比延山の僧が再興し天台宗に改宗し「六波羅蜜寺」となった。桃山時代には真言宗は智山派智積院の末寺となった。六波羅と言えば鎌倉時代に京都への拠点として「六波羅探題」が置かれた。江戸時代までは大伽藍と広大な寺領を有していたが、明治の廃仏毀釈で縮小され現在のような形になった。本尊の十一面観音像と空也の自刻像と言われる、口から南無阿弥陀仏の名号を唱える木造「空也上人像」有名である。

2009年12月6日日曜日

神仏霊場巡り   穴太寺  (亀岡市)





神仏霊場巡り   穴太寺
亀山市は摂丹街道の、のどかな田園風景の中に、古風で重厚な伽藍が突如視界に入る。丹波路の古刹「穴太寺」で西国三十三カ所二十一番札所である。正式は菩提山穴太寺である、地域のひとびとからは「あなおさん」と親しまれ、文武天皇の勅願で左大弁は大伴古麻呂が本尊薬師如来を安置して創建された。札所の本尊は聖観音菩薩である。この聖観音像は応和二年(962)丹波国郡司宇治宮成が京都の仏師に造らせたが、その像を廻る不思議な説話集「今昔物語集」が由縁を伝えている。宮成は仏師に観音像の出来の良さに大切にしていた名馬を与えたが、その名馬が惜しくなり家臣に命じ仏師を矢で射って殺させた。帰った宮成は、観音像の胸に矢が突きさって射るのを見て京都の仏師に使いを向け確かめると、仏師も馬も無事だった。宮成は改心、後日夢枕に観音が立ち、「傷の治癒をするため穴太寺の薬師如来に連れて行け」のお告げに穴太寺に治めたと言う。その伽藍も応仁の乱で戦禍に逢い焼失、再建後も明智光秀の丹波平定に焼失した。今日の荘厳な伽藍は江戸期の再建によるものである。