2011年11月23日水曜日

奈良の古刹西大寺


西大寺(奈良の古刹)
西大寺の創建は奈良時代、聖武天皇の皇女の称徳天皇が鎮護国家と平和祈願の為に金銅四天王像を造立を発願したことに始る。伽藍建立は十五年間に渡り、東西十一町、南北七町に及ぶもので、境内面積三十一町に及ぶ広大なものであった。ここに薬師、弥勒両金堂に十一面観音院など実に百数十堂塔の甍を並べ、父聖武天皇の東大寺に対して西の西大寺として栄えた。しかし平安時代に再三焼失し衰退していった。鎌倉時代には稀代名僧興正菩薩叡尊がこの寺に入り復興に当たり真言律宗の寺院として道場の伽藍が整備されていった。
この寺の有名な行事に一月十五日と四月,十月に行なわれる「大茶盛式」は大きな茶碗にお茶会が催されて老若男女の賑わいを見せる。

2011年11月19日土曜日

歴史探訪 護国神社


色即是空 「護国神社について」
大阪府に住み歴史的建造物を数々見てきたが、たまたま住之江区の住之江公園の交差点に立ち、広大な神域と森林に囲まれた神社を発見、護国神社であった。記紀に見る祭神の何れかと思い調べて見て分かったことは、「護国神社」の祭神は国家の為に殉職した人の英霊を祀るための神社。各都道府県に祀られている。調べてわかった。祀る祭神は靖国神社とはほぼ同じではあるが、本社、分社の関係は無く、主に各地域に殉職した人々を祭っていて、京都府などでは坂本龍馬など明治維新の獅子たちも祀られている。
私は一ノ宮研究を進めていて、数え歌に、一は一番一ノ宮、二は日光東照宮、三は讃岐の金比羅さん、四は信州の善光寺、五つ出雲の大社、六つ村には鎮守様、七つ鳴り成田の不動様、八つやはたの八幡宮、九つ高野の弘法さん、十は東京招魂社で最後の招魂社は何かで調べ手も分からずそのままだった。
招魂社は明治時代に国の為に殉職した英霊を祀る神社として「招魂社」が建立されたが、格式をもたすために「護国神社」と改められた。社格として府社県社に相当し内務大臣指定護国神社と指定外護国神社に別れる、終戦と同時に進駐軍は軍国主義施設として改名させられ講和条約後元に戻された。全国に五十二神社を数え靖国神社とは交流があるが、違う点は政治色がないことと、一九六〇年以後天皇、皇后陛下が十年ごとに幣帛を賜与されている。戦後長く戦没者を戦友会が運営していたが、高齢化で維持が年々難しくなり、今日では新たな祭祀には自衛官が祀られている。
国家の殉職した英霊にたいして「護国神社」哀悼の意を捧げてもいいのではないだろうか。
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2011年11月3日木曜日

「一ノ宮探訪」備前国一ノ宮吉備津彦神社


「一ノ宮探訪」備前国一ノ宮吉備津彦神社
JR岡山駅から吉備線に乗って10分余り、備前一ノ宮駅に着く、田園風景の中に、神社の社が山手を背に喜木々の間に間に見えそこが吉備津彦神社と分かる。古代信仰の神体山、吉備中山を背に10万坪余りの広大な神域を持ち、吉備中山には老松が繁り、巨大な岩座郡は元宮奥宮で天御中大神、高御産巣日神、神御産日神(三神は神話に出てくる別天津神)の造化三神が鎮座している。祭神は吉備津彦命を主神にして配神に孝霊天皇,開化天皇、祟神天皇、天足彦国押人命、金山彦命を祀る大社である。
吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子で五十狭芹彦命と言われているが、大和朝廷と対立したが、やがて融和関係が結ばれて血脈関係で吉備津国を治め祟神天皇の時に四道将軍の一人として派遣された。庶皇兄の武埴安彦の反乱を弟の若建吉備津日子命ともに治め吉備津国に下ったと言う。
由来創建については、吉備津彦神社は備前一宮で、吉備一ノ宮の吉備津神社の分社であっただろうと思われる。
 社伝に拠れば、吉備中山の東麓の屋敷跡に神詞を建て、吉備の国宗廟の総鎮守とした。その後仏教習合で五一宇、神宮寺、神力寺、常行堂、法華堂も建てられて吉備津宮として、一品一宮吉備津大明神として多いに栄えたと言う。
 神社の形式が古代朝鮮の影響を受け、新羅の五陵、韓式の鳥居があり、道教も磐座神社に祀られ、何故吉備に入って来たかは解明されていないが、総社市奥阪い築かれた古代朝鮮式山城も何らかの関係がるかも知れない。
また桃太郎伝説も吉備津大明神を鬼退治の主人公にしたてて、百済の王子が吉備冠者と称し、この地の人に危害を加えたとして、天皇は吉備津彦に鬼神を追伐させた、この地では鬼を(温羅)と言われ、これらを元に桃太郎伝説が出来たのであろう。