2009年12月15日火曜日

聖地霊地を巡る 四天王寺










聖地霊地を巡る
”太子縁り四天王寺“
四天王寺と言えば大阪を代表する寺院で、お盆に、お彼岸に難波っ子は、こぞって「天王寺さん」にお参りをすると言っても過言ではない、宗派を超えて老若男女がお参りするのが四天王寺である。本尊は金堂に祀られている救世観世音菩薩である。歴史的に連綿と続いた浪速の風習伝統文化に、大阪人の心の拠り処が天王寺かも知れな。
天王寺駅から北へ、西門に着くと、大きな石の鳥居は七百年余り前に伏見天皇の勅命により造り改めた。鳥居に掛けてある額「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」の十六文字が書かれ筆者は聖徳太子、空海とも言われているが、その横に石柱に「大日本仏法最初四天王寺」記されている。
その創建は「日本書紀」によれば推古天皇の時代に造営が開始されたと言う。
聖徳太子は仏教導入に当たり廃仏派の物部氏との戦いに勝利祈願に四天王の建立を誓ったと言う、勝利をした聖徳太子は大和に「法隆寺」仁徳縁の難波荒陵山に四天王寺を建立した。太子は大陸との交流、交易の拠点の浪速の入り江に、倭国の誇示する大伽藍の建立は未来を見据えた深い展望の意図があった。
開山にあたり「天王寺縁起」に示されたのは「四箇院の制」で仏教修行の”敬田院”病人に薬を施す”施薬院“貧しく身寄りの無いもの”悲田院”病気を治癒する“療病院“の四つの願いを立てられた、今もその精神は「四天王寺」に受け継がれている。
平安時代に入ると最澄の開いた天台宗と空海が開いた真言宗に影響された、延暦六年(787)空海は四天王寺に借住し西門で沈む夕陽を見て「西方極楽浄土」観想し、その後四天王寺初の別当に真言系の東寺の円行が就き真言宗との関係が深まるが、その後は天台宗の影響を受ける、弘仁七年(816)に最澄が借住し、法華宗を広め六時堂などを創建し更に弟子の光定や円仁が参篭し法華経、仁王経などを講義し教義を深め別当も天台系に引き継がれていった。
太子信仰は天皇、貴族の厚い信仰と庇護の元に参篭が成された、鳥羽上皇、後白河天皇や貴族の藤原頼長も熱心に参篭をした。日本の立宗開花した高僧では融通念仏の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍も熱心に参篭した。
その後四天王寺が隆盛を極めたのが天台山門派の学問僧”慈円”だと言われている。諸堂を再建し自ら別当に就任したが、鳥羽、後白河上皇の頃に天台宗寺門派園城寺の強い影響の基にその後の別当の補任では山門派、寺門派の争いは激化した。
武士の時代に入って将軍頼朝の参拝しが、南北朝の争いに、応仁の乱にも戦禍に逢い多くの堂塔が焼失した。信長の石山合戦にも戦禍に逢い秀吉によって再建された。
明治に入って神仏分離令で傘下の鎮守の神社は分離、広大な境内は公園に、昭和に入って室戸台風、大阪大空襲に焼かれてほぼ境内が全滅したが、大阪人の心の拠り所の天王寺は徐々に再建され、昭和二十一年に和宗総本山として独立、天王寺式伽藍配置」の復活し堂塔伽藍が再建されて、彼岸、お盆には引導金に亀井堂、亀の池に石舞台、六時堂に元三大師堂、露店の呼び込みの声、昔ながらの賑わいを見せる「天王寺さん」には今も宗派を越え時代を超え脈々として「太子」の思いが伝わる浪速の街の心情がある。
聖地、霊地を巡る。
                     川村一彦著

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