2011年8月10日水曜日

河内古社寺探訪


河内古寺社探訪    慈眼寺 (野崎観音)NO73

2009-09-11 06:00:18 | 日記




野崎観音 福聚山 「慈眼寺」曹洞宗 本尊十一観世音菩薩。(10)
JR 学研都市線野崎駅下車徒歩十分。大阪平野を見下ろす眺望の良い場所にある。国道一七〇号「東高野街道」を横切り急斜面の石階段と坂を上ればその眺めは大阪平野を眺望は絶景である。
寺伝によれば、今から千三百年余り前。行基が開山、元は摂津江口に有った寺を(江口の君)長者が摂津から平安時代にこの地に移したという。その後信長の松永秀久攻めで焼失、曹洞宗の禅僧青厳が再建した。
元禄時代に平野屋五兵衛が本堂を寄進、この頃より野崎参りが盛んになり大阪を一望のできる屈指の眺望は古くより、大阪庶民の信仰を集め、特に大阪の豪商、大店、旦那衆から、商人、庶民までこぞって野崎き詣でをした。
野崎の観音さん、江戸時代より広く親しまれ、商人の町浪速っ子は共のものや、芸者を引き連れ賑やかに「野崎参り」したのは有名である。
近松門左衛門(女殺油地獄)に出てきて「なまず川よりゆらゆらと野崎参り」とあり、船での野崎参りが大阪の風物詩となっていた。
何より“野崎参り”を一躍有名にさせたのが東海林太郎の歌謡曲にある「野崎小唄」(野崎参りは・・・屋形船で参ろか・)が大流行いち早く野崎観音を全国的に有名にさせた。
また落語の「野崎参り」は当時の情景を如実に後世に伝えた意味は大きい、船で行く人、歩く人の「掛け合い」で話が進むやがては、野崎に到着、そして観音参り、浪速っ子に人気の観音さんは本尊「十一面観音菩薩」は木造で秘仏平安初期作と言われている。
大阪から寺の下まで川が流れていたので、船の往来が盛んだった。
もともとこの当たりは寝屋川と深野池、などの湿地帯を大和川お付け替えにより、それを新田開発と、同時に堂島川から観音井路が通じその運河に利用し船の往来が活発であった。
昨今、戦後には大きな裁判訴訟にもなった大東市の寝屋川浸水被害の問題となった古くより治水が悪く、大雨や台風で洪水、氾濫繰り返していたがその分水利として、野崎の観音辺りまで船で行けた。
大阪は船場辺りから商人は野崎観音に願掛け、厄除け、商売繁盛に川沿いの土手堤を通り野咲き参りして、片やや淀川伝いに館船で野崎観音参りに繰り出す者がいて大いに賑わったそうである。
落語に出てくる登場人物は土手伝いに野崎を目指す人と、優雅に屋形船に芸者など乗せ物見胡散に行く者の掛け合いであり、枚方にある淀川の五十石船の“くらわんか船”の掛け合いに似ている。
当時は気さくに、誰かれとなく気をかけ、まさしく“旅は道ずれ世は情け”の気風があったのであろう。
大塩平八郎の乱では茨田群士の仲間をかくまった事もあると言う、歴史も持っている。
近松半二の歌舞伎の「お染久松」舞台荷もなり、その塚が残っている。
文楽、落語、歌謡と大阪庶民に取って馴染みの深い観音さんである。 
歌舞伎に出てくる銘台詞の“観音さまを、かこつけて、逢いに北やら南やら”、お染は思い久松の、あとを慕う手代の久松との悲しい恋物語は、この野崎を舞台にして繰り広げられた。
「野崎観音」は商人と庶民の安らぎの、気さくにお参りの出来る、願い聞き届けてくれる観音さんだったようである。 

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