2009年3月22日日曜日

弘川寺(西行法師終焉の地)

弘川寺
葛城山を背に大阪平野を見渡せる、急な坂道を中腹に「弘川寺」がある。
寺伝に依れば七世紀の天智天皇の御世に役行者が創建、天武天皇の時代に雨乞いの祈願の業により勅願寺として「龍池山弘川寺」の寺号を賜ったと言う。
 文治四年(1188)座主、空寂が後鳥羽天皇の病を祈願し治癒した功績で「善成寺」の勅額を賜った。その翌年に歌人で僧侶の西行法師が諸国旅しこの弘川寺を訪れ病に伏し亡くなり、西行終焉の地になったが永く西行の事は忘れられていたが江戸の僧侶で歌人で西行を慕って訪れた似雲によって西行の古墳が発見されその山の斜面に西行堂が建立されたと言う。最も有名な辞世の句は 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」と弘川寺は桜にまつわる伝説が多い。弘川寺は二回の大きな戦乱に巻き込まれた。享保
十七年(1732)この辺りは南北朝時代の南朝方の楠木軍の拠点の点在するところ、足利軍が弘川城を攻めた折り南朝方の武将隅屋市正高が破れた末に桜の木の下で自害した。戦国時代河内守護の畠山政長と義就が跡目争いで寛正四年(1463)弘川合戦となって、多くの伽藍、堂塔は悉く焼失したという。
西行縁の“ 弘川寺* 西行法師。佐藤義清、法号円位、大宝房など北面武士、後鳥羽院に寵愛を受け、理由は分からないが二十三歳で突然出家、高野山、伊勢、熊野、吉野、能因を跡を追って陸奥に、五十歳に祟徳院の墓参、弘法大師の遺跡の順礼四国へ、六十九才の折り東大寺再建の重源に巡り会い勧進のため奥州に、途中に頼朝に謁見している。生涯旅をしながら歌を詠み「新古今和歌集」に九十四首に掲載されその生活経験に基ずく清涼さが窺え、家集に「山家集」が残されている。

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